向井家由緒書

向井元仲 江戸中期以降 福田13_166

 

(本文)

(前キレ)

相勤申候。

 

一 先祖          向井左近大夫[1]

 右者肥前神崎郡庄内知行所在立候処永禄

  年中之乱ニ城地を失ひ一族離散仕候節、左近大夫

  同悴四郎兵衛神崎郡崎村[2]蟄居仕候。只今ニ同名

  之者并向井屋鋪跡或者建立之寺社等有之候。

  四郎兵衛惣領向井左近[3]代ニ従崎村初而長崎ニ 

 罷越候。

 

一 高祖父 向井元升[4]

大猷院様[5]御代寛永十六年卯年初而唐船持渡之

御書物御文庫[6]ニ納リ候。此節迄者書物改[7]極候

役人無之、当地寺方博識之出家并学才有之候者

寄合相改候。依之元升をも書物改相勤申候。正保四

亥年長崎東上町ニ始而聖堂[8]建立仕候。寛文三

   卯年三月八日大火之候節聖堂類焼仕候。延宝四

   辰年御奉行聖堂御再興御座候。此節元升儀者

   京都ニ住居医業仕候。同八申年三月廿一日曽祖父

   元成[9]被聖堂を下置候。寛永七寅年取替之儀

  を仰付置正徳元卯年八月廿七日長崎村之内

  聖堂を引移申候。聖堂開基仕候。元升ゟ私迄

  五代当子年迄百弐拾三年相成申候。

 

一 曽祖父          向井元成
厳有院 様御代延宝八申年七月廿五日御書物改役被
  仰付候
常憲院様[10]御代貞享二丑年唐船持渡之内ニ寰有詮[11]
  申耶蘇教法之書改出言上仕候処同年九月十六日
  元成江被仰渡候者其方事御書物御用入念
  相勤候ニ付大切之儀を見出候。依之今度新規ニ
  御切米三拾俵弐人扶持被 下置御普代被
  仰付旨被仰渡候。
享保十一年迄四拾七年

相勤忰無之文平[12]儀享保五子年六月十六日

養子奉願同九月六日願之通被 仰付旨

御老中井上河内守殿[13]被仰渡候由享保十

巳年十月十三日隠居奉願候処願之通同

十一午年正月四日隠居被 仰付同十二未年

病死仕候。

 

 一 養祖父[14]

有徳院様[15]御代享保十一午年正月四日御書物改役被

  仰付御切米御扶持方被 下置候旨 御老中

  水野和泉守[16]殿被仰渡候由。同年十二月大病相煩同月

十二日(元仲)[17]を急養子奉願翌十二未年正月病死仕候

一享保七寅年 聖堂江唐船ゟ康熙字典[18]与申書

 寄附仕候新渡之書付曽祖父元成相伺献上仕候処

  御銀五枚拝領仕候

一享保十一午年 聖堂江唐船ゟ暦算全書[19]与申書

 寄附仕候。新渡之書ニ付養祖父文平相伺献上仕候処

 御銀五枚拝領仕候。

 

一実祖父[20]

  右者

禁裏御療用御匙相勤御扶持方弐拾人扶持被 下置候

  享保十六亥年

比宮様[21]御供仕江府江罷下候節

有徳院様

公方様[22] 御目見被 仰付於

  御本丸御大奥

比宮様御匙相勤候。

禁裏御療用相勤候ニ付元文三午年十一月七日御宛行

 弐百俵被 下置旨御諸司代土岐丹後守殿[23]

 被仰渡候。寛保二戌年四月廿日病死仕候。

 

一 実父[24]

有徳院様御代享保十二未年閏四月八日御書物改役被

  仰付御切米御扶持方被 下置候旨松平伊賀守殿[25]

  被 仰渡候由同年二月四日宿継7御出来翌五日

  □□(承候?)趣被 仰渡明和二酉年迄四拾ヶ年相勤

  申候。

一 元文元辰年釈菜[26]修行仕度儀奉願候処願之通

  被為成御免右為入用銀六貫目宛被 下置候処

  寛延二巳年唐船半減商売被 仰出候砌半減

  之訳を以三貫目宛是迄年々被 下置候

     以上                                                                          (了)

 

 



[1] 向井左近太夫―詳細不明。本文書によると、永禄年間に神崎郡の領地を失い、倅の四郎兵衛とともに崎村に蟄居した。四郎兵衛の嫡子・左近は、子の元升らとともに長崎に移住したという。

[2] 崎村―現佐賀県神埼郡千代田町大字崎村。

[3] 向井左近―渡辺庫輔「去来とその一族」(去来顕彰会編『向井去来』去来顕彰会、1954年)、354頁は「貝原益軒撰するところの向井元升先生墓誌に『覚保之子号左近、名兼義 年号高甫、是先生之考也、高甫妻、三根郡千栗八幡祠官中左馬之女、是為先生の妣、生三男一女、長子嘉兵衛、次先生、次曰久次郎、次女、高甫有病、避酒村隠于高来郡長崎』といつてある。向井氏系譜に、兼義は兼秀といひ、これは墓誌のいふところを正しいとしなければならない」とする。

[4] 向井元升―〈国史〉1609-77 江戸時代前期の医家。諱は玄松(のちに玄升)、字は素栢、以順。観水子・霊蘭堂と号す。慶長14年(160922日、肥前国神崎郡崎村の生れ。長崎で天文および儒医の術を学び、本草学もよくし、日本で最初の本草書『庖厨備用倭名本草』を書く。慶安年中(1648-52)社学輔仁堂を建て子弟を養う。正保4年(1647)に聖堂を建てたが寛文3年(1663)に焼失。寛永16年(1639)より書物改役の春徳寺住職を助けたが、主に唐船の持ち渡る書物を選んで紅葉山文庫に納めることを担当した。万治元年(1658)上洛、京都で開医のほまれが高かった。延宝5年(167710169歳で病死。真如堂(京都市在京区浄土寺真如町)に葬る。『知恥篇』『乾坤弁説』『孝経辞伝』などの著もある。次弟元淵は俳諧の向井去来である。三男元成は長崎に帰り聖堂祭酒となり、貞享2年(1685)書物改中に『寰有詮』が禁書である旨を指摘したことで譜代書物改めに取り立てられ、のち向井氏は江戸時代末まで同役を相続した。

[5] 大猷院―徳川家光(1604-51)のこと。

[6] 御書物御文庫―江戸城内の紅葉山御文庫のこと。

[7] 書物改―〈国史〉江戸時代に長崎におかれた中国書の調査役。書物改手伝・書記役などが属した。幕府はキリスト教禁制政策を遂行するため、中国船が舶載する漢籍の内に含まれるキリスト教関係書を取り締る必要上、舶載書の内容検査を行った。最初は春徳寺住職がこれにあたり、寛永16年(1639)から紅葉山文庫へ納める書物を選ぶ目的で向井元升も加わった。文政5年(1822)の長崎の「諸役人始年号」(長崎歴史文化博物館蔵)に「書物目利 寛文年中の頃 延宝2年(1674)」と見える。また渡辺庫輔「去来とその一族」、377-378頁によると、「禁書が寛永七庚午(1630)年になされたことは、天保12丑年4月改御禁書目録に、この時の禁書の記載があって明らかである。(中略)しかし、この時、書物改という行動はあったに違いはないが、書物改という役職名はなかったと思われる。そしてこの行動をなしたものは、書物目利であったとおもはれる。(中略)通航一覧に「寛文中、書籍をはじめ、書目利役を命じすべてその年代今詳ならずをの/\印署を呈せしむ」といつてあるから、この職の設けられたのは寛文年間である。」

[8] 聖堂―渡辺「去来とその一族」378-383頁では、東上町に建てられた聖堂は後に牛込氏の再興した聖堂で、元升が建てた聖堂は武具蔵のあった本興善町にあったとする。

[9] 向井元成―1656-1727。長崎聖堂祭主として延宝8年(1680)から享保11年(1726)まで延べ46年在職。明暦21015日立山で元升の3男として誕生。元淵こと去来の弟。名は兼丸、幼名亀千代、小源太。字は叔明、鳳梧斎、また無為と号した。諡は礼焉子。若い頃老荘を好み、後に程朱学を信奉した。京都の伊藤固庵に学んだ。延宝元年以来5年諸国を遍歴して長崎に至り、延宝82月に長崎奉行牛込忠左衛門に見え、323日に祭酒に迎えられる。貞享2年(1685)書物改中に『寰有詮』が禁書である旨を指摘、譜代書物改めに取り立てられる。元升と同様、天文学・暦学・数学・医学・本草学に詳しく、漢詩文や俳諧をたしなむ文人学者であった。魯町の号で兄去来の指導をうけ、『猿蓑』『炭俵』『有磯海』や去来の俳諧『旅寝論』などにも登場する。『長崎産物考』『丸散方』などの著書が写本で伝わる。『新長崎市史』近世編、748頁。

[10] 常憲院―徳川綱吉(1646-1709)。

[11] 寰有詮―明の李之藻と来華イエズス会士F.フルタード(傅汎際)による、コインブラ版アリストテレス注釈書『天体について』に基づく漢訳書。1628年刊。

[12] 向井文平―1710-1727。幼名は槌十郎、後に文平と名乗る。字は元欽、敬焉子温恭と号す。祭酒に任じられた年は17歳で、若年につき聖堂祭酒の役儀は元成が後見し門弟が助力した。実父は長崎在住の町人内山弥三右衛門、母は久米七郎左衛門道端の娘。文平は元成の母方の親戚。しかし病弱で享保12年(1727)正月元日に病死した。享年18歳。

[13] 井上河内守―〈国史〉井上正岑(1653-1722)。江戸時代中期の老中。初名正通、大和守・河内守。宝永2年(17059月老中となり、従四位下河内守と改め、翌年侍従に進み、享保3年(17183月一万石加増で六万石を領し、同7517日現職のまま江戸邸で没した。70歳。

[14] 養祖父―原本に名の明記はないが、向井文平のこと。

[15]有徳院様―〈国史〉徳川吉宗 1684-1751 江戸幕府第八代将軍。1716-45在職。

[16]水野和泉守―〈国史〉水野忠之 1669-1731 江戸時代中期の三河国岡崎藩主。享保の改革の前半を主導した老中。斎宮、主水、監物、和泉守を称する。享保2年(17179月、八代将軍徳川吉宗より老中に任ぜられ、同75月に改革の財政再建の最高責任者である勝手掛老中に任命され、年貢増微・新田開発などの増収製作を積極的に推進した。

[17]「私」をミセケチして「元仲」と付す。

[18]康熙字典―〈国史〉中国、清の康熙55年(1716)に完成した字書。日本へは遅くとも享保5年(1720)には渡来。若木太一「長崎聖堂略史・付年表」(薮田貫、若木太一『長崎聖堂祭酒日記』(関西大学出版部、2010年)、507頁)によると、「享保7年(1722)この年、唐船から聖堂に新渡の『康熙字典』(康熙55年刊、1716)が寄附された。元成は将軍吉宗に献上、銀五枚を賜る(「聖堂開基以来由緒書」)。」

[19] 暦算全書―清代初期の数学者・天文学者(ばい)(ぶん)(てい)の著。1723年に編まれたとされる。2976巻の数学・天文書を収める。日本への渡来後、将軍吉宗の命を受けて中根元圭が訓点本をつくり、西洋科学研究のさきがけとなり、三角法などもこの書を通じて日本に伝えられた。大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所、1967年)678頁、「資料編」『商船載来書目』に「享保11年丙午年[中略]一暦算全書 一部四套」。長崎歴史文化博物館収蔵『唐書目録 享保十一年午7番船舶載』に「暦算全書 三十二本七十一巻」と見える。

[20] 実祖父―原本に名の明記はないが向井元桂のこと。渡辺「去来とその一族」、452頁によると、「元桂、諱は兼道である。向井氏系譜に、『兼道、実盛方院法橋吉田快庵五男、益寿院法印元端為智養子、禁裏御所御典薬御匙也、一条関白公関東江御下向之時供奉ス、後被任法橋法眼法印、弐拾人御扶持拝領、享保十六年辛亥年、比御宮江府御城江御入輿之御時供奉、於御大奥、有徳院様、公方様、御目見被為仰付、比御宮御匙相勤、従江府御城宛行二百俵拝領、元文三戌午年諸司代土岐丹後守殿御在勤之節、寛保二壬戌4月廿日病卒、墓在洛東眞如堂』といつてある」。また、453頁に、「元桂は、寛保二壬戌年正月向井元桂書上覚書に、『当戌七拾歳』といひ、『私偽四拾三年以前、養方元端方江聟養子罷越』といつてある。寛保二壬戌(一七四二)年から逆算して、七十年前は延宝元癸丑(一六七三)年、四三年前は元禄十三庚辰(一七〇〇)年に当たる。元桂は二十八歳の時に元端の女婿になったのであった。庚辰に元端は五十二歳である。盛方院吉田快庵の子で婿養子として向井元端の娘と結婚し、5代祭主の向井元仲の父である。」

[21] 比宮様―比宮(なみのみや)培子(ますこ)1711-1733)のこと。九代将軍徳川家重の妻。享保10年(1725)将軍吉宗世子家重と婚約、同16年に江戸に下向し西の丸に移った。同189月、流産して病床につき、御台所と呼ばれる前に死没した。23歳。芳賀登他監修『日本人女性人名事典』(日本図書センター、1998年)。

[22] 公方様―徳川家重のこと。

[23] 土岐丹後守頼稔(1695-1744)。駿河田中藩2代藩主。享保19年(1734年)6月に京都所司代、寛保2年(1742年)6月には老中。

[24] 実父―向井元仲(1712-89)のこと。聖堂五代祭酒。享保12年(1727)正月〜明和2年(17658月、在職延べ39年。京都向井元桂の三男。祖父は元成の兄元端。幼名は豹三郎、後に名を兼般・元仲、斎宮と改める。享保1216歳の時に長崎へ来て文平の養子となり、文平没後に祭酒を継いだ。元文元年221日釈菜奠を執行した。享保20年に龍淵寺と屋敷を一部振替えた。(『元仲日記』)。寛政元年(1789712日、享年77。」(『新長崎市史』近世編、751頁)。

[25] 松平伊賀守殿―〈国史〉松平忠周(1661-1728)。江戸時代中期の若年寄・側用人・京都所司代・老中。享保二年(一七一七)京都所司代となり、同九年には老中に昇進したが、在職中の同一三年四月三十日に没した。六十八歳。

[26]釈菜―〈国史〉釈奠−孔子をはじめとする儒教の先哲を先聖・先師として祭る祭儀。古代中国では略式の釈奠を釈菜と呼んだが、のち釈奠の別称となった。