書簡〔唐船寄進銀の件〕

官梅三十郎・穎川四郎太より向井元仲宛

聖堂520-4-3

 

(本文)

(端裏書)

向井元仲[1]様   官([梅ヵ])三十郎[2]

        頴川四郎([太ヵ])[3]

 

(貼紙)拾貫四百六拾文

 

以手紙啓上仕候。然ハ先達([而ヵ])

聖堂為拝礼唐人共

罷出候節所々御破損仕候

儀を見及ひ候。定而御修覆

可被成奉存候付、此度丑寅

三拾七艘[4]之唐人共存寄、修理

為雑費料一船ゟ氷砂糖

五百斤宛寄付仕度儀御願

申上候処、御免之由今日

高嶋作兵衛[5]殿ゟ被仰出候。此段

為御知せ如此御座候、以上。

 

 五月朔日

 

追而右修理料唐人方江御返礼

被遣候筈ニ御座候。委細之儀

其内可得貴意候、以上。

(了)

 

 



[1] 向井元仲−第五代聖堂祭主・向井元仲(在職:享保121727年〜明和21765年)。

[2] 官梅三十郎−官梅三十郎(?〜寛宝31743)。官梅分家初代。宝永2年(1705)小通詞。享保2年(1717)大通詞。同18年(17331113日御用通事兼大通詞で、この享保19年当時は御用通事兼大通詞。宮田『唐通事家系論攷』、372頁。

[3] 穎川四郎太−潁川四郎太(宝永71710〜安永31774年)。陳冲一系五代。享保18年(1733728日小通詞末席。延享4年(1747)大通詞のため、この時小通詞。宮田『唐通事家系論攷』、56頁。

[4] 丑寅―『長崎実録大成(長崎志正編)』によると享保18丑・19寅年(173334)の入港唐船数はそれぞれ28艘(外に2船積戻)・31艘で、このうちの37艘のことを指すと思われる。

[5] 高嶋作兵衛―高嶋本家六代(桜町別家初代)・作兵衛のことか(?〜延享217451223日)。享保18年(173311月退役を願い出、一代町年寄に。その子も一代町年寄に任命され、以後世襲となった。宮田安『中島川遠眼鏡』(長崎文献者、1977年)、97頁。