口上之覚〔信牌に関する件〕

向井元成 享保11年(1726)頃 聖堂660-740-1

 

(本文)

口上之覚

一昨日者信牌[1]之儀御願申上候処御返シ

 被遊御意之趣委細承知仕御尤至極

 奉存候。然共右申上候通大切之儀ニ御座候。

 不顧恐、又々御願申上候。

一信牌之儀、何番船船主[2]、何港門[3]、何年之

 信牌相認指出候様ニ被 仰付候儀者無

 相違相認、朱印[4]押候而指上候儀、随分

 相勤可申候。

一何番船之船主者何之港門何之年之

 入津之船割[5]ニ候哉、又者御定高[6]之内ニ而

 一年切之湊替[7]被 仰付候儀、何之港ニ而

 定数[8]ニ含申候哉、又者定数之外ニ而臨時ニ

 被 仰付候類[9]、振替等之船割之儀者

 文平[10]若輩者之儀ニ御座候得者、間違

 御座候半かと無覚束奉存候。

一前方者船数も少く入津之相滞も稀ニ

 御座候而、大方隔年ニ参候。三四年以来者

 来進之船も多く、前後混雑仕、其上船

 数も多く罷成、四年廻りニ参候も御座候[11]

 且又去年以来者臨時振替等も多ク

 御座候而、別而紛敷、御定高之過不足も

 御座候半かと無心元奉存候。文平未熟

 不堪ニ而者相勤候事無心元奉存候間、

 乍恐弥宜敷様ニ御取成奉頼候。

 依是乍憚又々奉願候、以上。

   十月   向井元成

(了)

 

 



[1] 信牌−〈国史〉正徳長崎新例で江戸幕府が唐船に対して創設した貿易許可の照票(証明書)。長崎通商照票ともいう。

[2] 船主−〈日国〉船の所有者。船の持主。ふなぬし。山脇悌二朗『長崎の唐人貿易』新装版(吉川弘文館、1995年)、142頁によると、「船主」は船頭ともいい、(唐船に)乗船している商人を代表する有力商人のことを指した。また、西川如見『増補華夷通商考』、飯島忠夫[他]校訂『日本水土考 水土解弁 増補華夷通商考』(岩波書店、1944年)、106-107頁によると、「船主(ツンツウ) 船頭なり。船中にて役なし。日本にて商売の下知をし、公儀を勤め、一船の人(しゆ)を治む。船頭に二種あり。荷物の主人(すなはち)船頭と(なつ)て来るもあり、又荷物の(ぬし)は乗らず、手代(てだい)親類(しんるい)船頭と(なつ)て来るもあり」。

[3] 港門−〈日国〉港の出入口。港口。ここでは、唐船の起帆港を指すか。山脇『長崎の唐人貿易』、151頁によると、正徳新例によって唐船の起帆港は、南京・寧波(ニンポー)厦門(アモイ)・台湾・広東・広南(カチヤン)暹羅(シャム)・咬留吧に限定された。

[4] 朱印−信牌には三か所朱印が押されていた。第一は右上の「永以為好」印で、これは信牌の発給原簿である「割符留帳」との割印。第二は本文で貿易銀高を示した箇所に「結信長遠」印、最後に本文末尾に「訳司会同之印」印。大庭脩編著『享保時代の日中関係資料1−近世日中交渉史料集2−』関西大学東西学術研究所資料集刊9-2(関西大学東西学術研究所、1986年)、366頁参照。

[5] 船割−来航唐船数とそれに伴う貿易高の調整のため、港門や年ごとに、どれだけの信牌を発給するかの配分・割合を決めることか。『信牌方記録 正徳五年』(長崎歴史文化博物館・福田文庫蔵)「正徳五乙未年」の条に「御定船数銀高之覚。一、南京 拾艘 毎船積銀高百九拾貫目宛。一、寧波 拾壹艘 同百九拾貫目宛。一、厦門 貮艘 同二百二拾貫目宛。一、広東 貮艘 同二百七拾貫目宛。一、台湾 貮艘 同百三拾貫目宛。一、広南 壹艘 同百七拾貫目宛。一、暹羅 壹艘 同三百貫目。一、咬留吧 壹艘 同三百貫目。以上三拾艘 銀高合六千貫目」と見える。

[6] 定高(さだめだか、じょうだか)−長崎貿易で、年間の取引総額に設けた一定の上限(定高)のこと。貞享元年(1684)に出された貞享令により、唐貿易の定高は銀6,000貫に定められ、享保2年(1717)には銀8,000貫、同5年には(享保)新銀4,000貫となった。

[7] 一年切之湊替−年によって港門ごとの信牌発給数を変える調整のことを指すか。

[8] 定数−信牌の発行総数(すなわち長崎入港を許可する唐船数)のことか。

[9] 臨時ニ被 仰付候類−定数外で、臨時に発行された信牌のこと。たとえば『信牌方記録 正徳五年』「享保七壬寅年」の条に、「一壱番船船頭丘永泰■御用大長ヶ之唐馬牽渡可申由御請合申上候ニ付臨時牌を御与被遊本船ゟ帰唐仕候事」と見え、享保7年(1722)入津の「壱番船船頭丘永泰」は御用で中国の馬を連れてきたことを賞され、臨時に信牌を発給されていた。

[10] 文平−向井文平(1710-1727)。幼名は槌十郎、後に文平。字は元欽、敬焉子温恭と号す。向井元成の養子として、聖堂祭酒に任じられた時は17歳で、若年につき祭酒の役儀は元成が後見し、門弟が助力した。実父は長崎在住の町人内山弥三右衛門、母は久米七郎左衛門道端の娘。文平は元成の母方の親戚。しかし病弱で享保12年(1727)正月元日に病死。享年18歳。『新長崎市史』近世編、751頁。

[11] 山脇『長崎の唐人貿易』、316-320頁参考。

〔表1〕長崎への入港を許可された唐船数の変遷