口上之覚〔元仲方ゟ元簡儀申出候願書之覚(草稿)〕
向井元仲 戌六月(享保15年6月)
縦15.7×横179p
聖堂660-741および280-64
(本文)
(ココカラ 聖堂660-741)
(端裏付箋)
(端裏書)
同六月廿八日先生[3]同道ニ而罷出高木
作右衛門[4]殿当役□仰渡
口上之覚
〔一野間元簡〕儀、御新例[5]之初年ゟ
〔 私祖父向井〕元成[6]ニ付添信牌
割方[7]之儀数年手馴レ罷
在候ニ付、元成老衰ニて御用
繁ク相勤外ニ勝手存知候者□
無之、其上勤労も有之者ニ
□御座候故、御伺申上御免を
受候而、信牌割方之儀元簡へ
申付置、元成為名代毎度
御役所[8]へ差出シ、信牌御用
筋之儀混え相勤させ申候。其
後元簡病身ニ罷成折々
相煩候故、又々元成存寄ニて
同役之内田辺八右衛門[9]江も右之
割方之筋呑込セ、両人ニ而
相勤候様ニ申付候。則信牌
方之次第割方之筋合
元簡ゟ八右衛門江指南仕夫ゟハ
依之其以後者
元簡・八右衛門両人ニて元成
名代相勤来申候。然処
元成養子向井文平、若年
ニ而難病相煩、十死一生之
様子ニ□□見候京都ニ罷有候
私儀を文平急養子ニ相
願申候。右之願御役所ゟ
江府迄被仰上候。依之□速
此訳元成方ゟ京都私実父
向井元桂[10]方へ申連候得共、私儀
一条殿[11]迄相勤罷有候ニ付、差
下シ候儀決而不相叶旨返答
申越候。此取合再三仕候而も
埓明不申候内ニ文平病
死仕、江府ゟハ願上通被
仰付候趣成り、元成儀ハ至極
老衰ニて立居も不相叶体ニ
罷成居申候。其節ニ至り、私罷
下り不申候而者元成跡式
及断絶候儀故、元簡儀者
元成并元桂方ニも内縁
有之候訳を以、元成并ニ一門中ゟ元簡へ
相頼、京都へ罷登り直々ニ
取組仕候而、急ニ私罷下候
様ニ世話仕呉候様ニ、無拠
相頼候故、公儀江者元簡其節自
分之儀ニ申立御暇願受
上京仕、京都之取合相済シテ
私を同道仕罷下り申候。私
下着之翌々日、文平願之通
家督被 仰付□、其四五日も
過候而元成□病死仕候。且又
元簡上京之留守唐船
帰帆有之、元簡ハ右之
訳ニ而留守故、御吟味之上八右衛門を
被召出信牌割方之御用
被仰付候而、事相済ミ、只今以
相勤来申候。其上書記御用方之名目ニ成り役
料一貫目之御加増も被
仰付候。元簡儀ハ最初ゟ
□□信牌方之儀も得と呑込
罷有者ニ御座候処、畢竟
私事故 上京仕候而、折角
(ココカラ 聖堂280-64)
勤来候信牌方も相□
不申様ニ成行、候儀私ニおゐて
(貼紙)
右元簡筋合之儀者諸人共ニ能存知候
事故、八右衛門一人差出元簡儀何之沙汰も
無之事、諸人之疑元簡失面目候儀
私ニおゐて難黙止奉存候。
(貼紙終わり)
元簡心宛之□難黙止
奉存候。右之趣被為聞召上
依之近比恐至極ニ奉存候得共、
何卒元簡儀筋目之通八右衛門
同前ニ相勤候様ニ被仰付
被下候ハヽ、元簡数年信牌ニ
懸り候功も相立、並私元簡へ
対シ段々京都以来介抱
仕呉候処を謝候儀も立□
以双方之儀被聞召上
切願候通御許容被
成下候ハヽ重畳難有可奉存候
右 ――――――
年号月(戌六月) 名
宛名
(了)
※( )は貼り紙部分。
[1] 元仲−第5長崎聖堂祭酒向井元仲(1712-1789)のこと。在職享保12年(1727)〜明和2年(1765)、延べ39年。京都向井元桂の3男。祖父は元成の兄元端。幼名は豹三郎、後に名を兼般・元仲、斎宮と改める。享保12年、16歳の時に長崎へ来て文平の養子となり、文平没後に祭酒を継いだ。元文元年2月21日釈菜奠を執行した。享保20年に龍淵寺と屋敷を一部振替えた(『元仲日記』)。『新長崎市史』近世編、751頁。
[2] 元簡−向井元成の弟子・野間元簡(生没年未詳)のこと。渡辺「去来とその一族」、477頁に引用されている「丑七月向井元成書上覚書」には、「私[元成]弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候」とあり、元簡と田辺八右衛門の2人は学才があり、算術の心得もあったらしい。また、本文書には「…元簡儀者、元成并元桂方ニも内縁有之候」とあり、元簡が元成だけではなく、元桂とも縁のある人物であることがわかる。
[3] 先生−本文書の内容から察するに、元仲が元簡を指してこう呼んだものか。
[4] 作右衛門−長崎代官・御用物役の高木作右衛門忠与のことか。
[5] 新例−正徳新例のこと。〈国史〉正徳5年(1715)、新井白石の行った長崎貿易改革。海舶互市新例ともいう。改正の要点は大きく、(一)唐貿易は船数三十艘、取引高銀六千貫目(最大限銀九千貫目)。すでに元禄元年(1688)、唐船は七十艘入港していたから、三十艘というのは非常な削減であり、その結果発生が予想される密貿易防止のため、信牌すなわち入港許可書をもつ唐船だけ長崎入港を認めた。
[6] 元成−第3代長崎聖堂祭酒向井元成のこと。在職は延宝8年(1680)〜享保11年(1726)まで延べ46年。向井元升の3男。元淵こと去来の弟。名は兼丸、幼名亀千代、小源太。字は叔明、鳳梧斎、また無為と号した。諡は礼焉子。若い頃老荘を好み、後に程朱学を信奉した。延宝元年以来5年諸国を遍歴して長崎に至り、延宝8年2月に長崎奉行牛込忠左衛門に見え、3月23日に祭酒に迎えられた。『新長崎市史』近世編、750-751頁。
[7] 信牌割方−信牌発給に関する仕事のこと。またはその役職名。
[8] 御役所−長崎奉行所のことか。
[9] 田辺八右衛門−田辺茂啓(1688-1768)。江戸中期の長崎聖堂書記役で、通称八右衛門、功山と号した。字は方業。『長崎実録大成』(長崎志正編)の編者。元成の弟子として、野間元簡とともに信牌割方に関わり、また和算をよくした。平岡「長崎の印章」、53-54頁。
[10] 向井元桂―元仲の実父。前掲「向井家由緒書」福田13_166参照。
[11] 一条殿 → 一条家‐〈国史〉五摂家の一つ。藤原氏北家(摂関家)は忠通のあと、近衛殿基実・松殿基房・九条殿兼実の三家に分れたが、漸次嫡家の近衛流と九条流が栄え、近衛流は近衛・鷹司の二家、九条流は一条・二条・九条の三家となり、五摂家と称せられるようになった。