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1.はじめての出会い〜南蛮・紅毛流医術 |
西洋医学の日本伝来は16世紀中頃にはじまりました。はじめにポルトガル系、続いてオランダ系の医療術が相次いで伝えられ、それぞれ「南蛮流」「紅毛流」外科と呼ばれました。鎖国前後の長崎から全国へと広まったこれらの新知識は、さまざまな写本が現存することから分かるように、本格的な「蘭学」が誕生する以前から日本人に強い関心を呼び起こしました。 |
本書の著者ヴェサリウス(1514-1564)は、当時ヨーロッパで医学の権威だったガレノス(129頃-199)の誤りを200箇所訂正し、死体解剖による直接観察の優位性を示しました。綿密で美しい木版の解剖図はかつてなかったもので、近代解剖学の出発点となった著作と言われています。 |
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この写本には戦国時代の金瘡(刀・矢・槍による傷)治療と南蛮医術との組み合わせが見られます。ポルトガル語源の「コラウアド」corado(赤)、「ホランコ」branco(白)、「ネエゴロ」negro(黒)は、それぞれ色で定義される膏薬のことで、いずれも中世ヨーロッパの膏薬方を反映した処方です。 |
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寛永18年(1641)、平戸から出島にオランダ商館が移設されて以後、日本人はオランダ人医師のノウハウに大きな関心を寄せるようになりました。この写本には、長崎の医師・向井元升(1609-77)が幕命により明暦2〜3年(1656-7)に出島に出入りし、商館医ハンス・ハンケから受けた医学伝授の内容が記されています。 |
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「加須波留」とは、慶安2年(1649)に来日した商館医カスパル・シャムベルゲル(1623-1706)のこと。滞在中、長崎・江戸で多くの患者を治療して名声を博しました。長崎で活躍した医師の河口良庵 (1629-87)は、カスパルに直接学び、カスパル流外科の流行にもっとも大きな役割を果たした人物です。 |
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江戸時代に師匠から弟子へ医術が伝授される際、このような「相伝書」や「秘伝書」が作成されました。この巻物には「焼鉄之事」(傷口を金属で焼いて消毒すること)など、日本の伝統医学になかった西洋の治療法を見ることができます。 |
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日本で初めて翻訳された西洋医書は『解体新書』(1774年刊)と一般に考えられていますが、長崎の阿蘭陀通詞・本木良意(1628-97)は、ドイツ人レムリンの解剖書『小宇宙図譜』(蘭訳本、1668年刊)を、すでに天和元年(1681)頃に翻訳しています。この先駆的な和訳は写本として流布し、周防の医師・鈴木宗云によって明和9年(1772)に出版されました。 |
スクルテトゥス(1595-1645)は17世紀ドイツで活躍した医師です。細かな外科手術の手順と、充実した外科器具のリストを載せた本書は、ヨーロッパでベストセラーになりました。その図版の多くが資料9と一致することから、江戸時代の長崎に舶来したと推定されます。 |
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この巻物の図の多くは資料8と非常によく一致します。これと同じ図は、阿蘭陀通詞の楢林鎮山(1648-1711)や西玄哲(1681-1760)の著作にも見られるため、江戸初期の阿蘭陀通詞による西洋医学研究の成果と推定される資料です。 |
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出島におけるオランダ人医師の外科手術の様子が、多色刷りの木版画に描かれています。江戸時代における長崎の西洋医学は、このような版画を通じて、一般社会にも知られるようになりました。 |
2.蘭方医学と脳 |
江戸時代以前の日本では、身体やこころの働きを中国の五臓六腑説で説明していました。怒りは「肝」、喜びは「心」、恐れは「腎」が支配するなど、現代人が脳の働きと考える精神作用も五臓六腑の働きとみなしたのです。しかし江戸時代中頃になると、日本でも解剖が行われるようになり、人体に関する知識が次第に深まります。さらに長崎阿蘭陀通詞の語学力を背景に蘭学が盛んになると、脳の機能に関する新たな知識が西洋から伝わりました。『解体新書』など、脳を意識・精神の座とする翻訳書が初めて出版されるのがこの頃です。 |
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脳は東洋医学では「髄海」と呼ばれ、生命の維持に重要な役割をはたす器官とされました。その一方で、意識・精神の作用はおもに心臓にあると考えられました。現代でも「こころ」が精神を意味する起源はここにあります。右側の図は、五臓六腑説に基づく解剖図を側面から描いたもので、中国の宋代以降の漢方医書でよく用いられる描き方です。 |
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脳を意識の座としてはじめて日本に紹介した書物が、この『解体新書』です。本書の翻訳に指導者的役割をはたした前野良沢(1723-1803)は、長崎に遊学して阿蘭陀通詞の吉雄耕牛・楢林栄左衛門らにオランダ語を学んだ中津藩の医師です。吉雄は本書の序文執筆も依頼されるなど、『解体新書』誕生の背景には長崎通詞の存在がありました。 |
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江戸時代における死体解剖は、山脇東洋(1705-1762)が宝暦4年(1754)に初めておこなって以降、少しずつ全国に広がってゆきました。この8枚の図は、元は巻物だったものを分割したもので、解剖の進行過程を時間軸に沿って詳しく描いています。このような「物語調」の解剖図譜は、西洋解剖書にはない日本独自のものです。 |
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宇田川玄真(1769-1834)は、一時期杉田玄白の養子となりましたが、放蕩のため離縁され、蘭書の翻訳で窮乏をしのいだ苦労人。その後の不断の努力により、蘭方医学の大家となりました。精密な銅板図は洋風画家の亜欧堂田善(1748-1822)によるもので、銅板による解剖図は本書が日本初です。 |
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おもに蘭学の知識にもとづく百科全書的著作です。本書にも、「脳髄(ヘルセンHersenen)」が最も重要な器官で、精神・意識の場であることが記されています。西洋的な「脳」の見方はこのように次第に広まっていきましたが、広く一般市民に定着したのは、明治以降に西洋医学教育が普及してからのことです。 |
3.シーボルトの医学 |
文政6年(1823)、オランダ商館医として来日したドイツ人シーボルト(1796-1866)は、長崎郊外に「鳴滝塾」を開いて実地診療を行いつつ、多くの日本人に医学・博物学を伝えました。禁制品を国外に持ち出そうとしたいわゆる「シーボルト事件」により、文政12年(1829)に日本を離れますが、安政6年(1859)には二度目の来日を果たし、妻のタキや娘のイネと再会を果たしています。 |
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1度目の来日時(1823-1829)のシーボルトの肖像画。画者はシーボルトの絵師としてあらゆる対象を精細に描き、そしてシーボルト事件に連座した川原慶賀(1786-?)です。 |
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画者は、シーボルトの助手として来日したオランダ人デ・フィレネーフェ(1800-1874)です。 |
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シーボルトの絵師・川原慶賀が描いた、長崎洋風画を代表する作品です。西洋人医師による瀉血手術(静脈から血液の一部を体外に除去する治療)の様子が描かれていますが、この治療法は当時の日本人には定着しませんでした。苦痛を忍ぶ患者の表情は、フランス人画家の描いた石版画を借用したものです。 |
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文政10年(1827)、出島で生を受けたシーボルトの娘・楠本イネ(1827-1903)は、日本人女性としてはじめての西洋医学による産婦人科医となりました。明治6年(1873)には宮内庁 御用掛を拝命し、宮中の産事に携わります。これは、イネの娘の山脇タカ(1852-1938)とともに晩年に撮影した写真です。 |
シーボルトは安政6年(1859)の2度目の来日時に、この医療器具を持参し、娘のイネに与えました。その後、昭和31年に、イネの孫から長崎県に寄贈されたもので、外科、産科、歯科等の器具が含まれています。 |
シーボルトが2度目の来日時に持参し、娘イネに与えた医療器具です。ピンセット、メス、骨鋸など、計20点のセットです。イネは父の口添で、オランダ人医師のポンペやボードインらに医学を学び、また自ら解剖を行ったという記録も残っています。 |
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この西洋式の薬籠も、シーボルトが2度目の来日時に持参したものです。シーボルトがイネの家で患者を診察した際に用い、その後イネに与えたものと思われます。計20個の薬瓶の内、1本には薬が残されています。日本でガラス製の薬瓶が普及するのは明治以後で、当時は非常に珍しいものでした。 |
青貝細工は、アワビなどの貝の真珠光を放つ部分をとって薄片にし、種々の形に切って漆器あるいは木地などの面にはめ込んで装飾とするものです。江戸時代の長崎では、海外への輸出向けに青貝細工が盛んに作られ、ヨーロッパでとりわけ珍重されました。 |
4.近代医学と長崎 |
日本における「西洋医学教育の父」として知られるポンペ(1829-1908)は、安政4年(1857)、オランダ政府派遣の軍医として長崎にやってきました。ポンペは医学所を開校して、最新の西洋医学と基礎科学を教授し、後の明治医学界の巨匠を多数育成しただけでなく、幕府に建議して日本最初の西洋式近代病院「長崎養生所」(長崎大学医学部の前身)を設立しました。またポンペの後任として養生所教頭をつとめたボードイン(1822-1885)は、長崎はもとより、大学東校(東京大学医学部の前身)や大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)にも招かれ、西洋近代医学の日本への導入に大きな役割を果たしました。 |
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28歳で長崎にやってきたポンペの若き姿を描いた肖像です。ポンペは20歳でユトレヒト陸軍軍医学校を卒業して海軍に入り、軍医として東インドに赴任したあと、1857年9月23日に長崎にやってきました。 |
ポンペの建議により文久元年(1861)に開設された長崎養生所を描いたものです。小島郷に建設されたため「小島養生所」とも呼ばれました。医学生はここで臨床実習をしつつ、ポンペの講義を受けました。日本で初めて作られた西洋式の近代病院で、現在の長崎大学医学部の前身にあたります。 |
ポンペとボードインによる医学講義の筆記録です。当時の受講生の一人がまとめたものと推定されます。安政6年(1859)、ポンペは長崎奉行所の許可を得て、多くの医学生の前で人体解剖を行いましたが、ここには、その時行われた眼球解剖講義の筆記録が含まれています。 |
ポンペの長崎滞在五年間の回想録です。医学講義のようすや養生所開設の事情がつぶさに述べられています。その中の「ひとたびこの医師という仕事を選んだ以上、もはや自分の体ではない。まったく病人のものである。それを好まぬなら、よろしく医師をやめて他の仕事に転ずべきである」という言葉に、医師としてのポンペの信念を見ることができます。 |
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「手頭留」は長崎奉行所で作成された文書の一種で、奉行が町方などへ通達した文書の控えを書き留めたものです。その中には「長崎養生所規則」が含まれており、設立間もない養生所の運営規則を知ることができます。 |
養生所規則
一、療養相願候者、銘々居町居村役人并引請証人名前相認候印紙書付弐枚持参、証人同道直ニ養生所江罷越、壱枚は門番所江差出、壱枚は玄関江持参、役人引合医師改請、寄宿可致候
但養生所より人別糺方いたし候間、居町居村乙名散使江相届置、罷越可申、尤乙名散使等より申立ニ不及、当人とも直ニ罷越不苦候
一 夜具寝衣之類は、置附之御品有之候間、持参ニ不及、尤自分所持之物致持参度候ハヽ、医師見届候上差許可申候
一 病気快方ニをもむき、歩行等差支無之者は、服薬相休不申候とも帰宅為致、日を定相通ひ、診察受ケ可申候事
一 療治相願候もの、身許有之分は寄宿中一日壱人六匁宛、一切之為賄料相納可申、尤全快後たりとも、其前たりとも、都合次第相納可申候事
一 看病人召連寄宿いたし、一間借切方願候者は、一切之為賄料一日拾弐匁宛前同様相納可申候事
一 市郷之内、身許薄之者江は薬剤被下候間、前同様之手順ニ而一日壱人弐匁五分宛相納可申候事
但極貧之者共は、其時宜ニ寄、諸賄料等一式差出ニ不及候事
一 病人之親類、其外見舞之者は、兼而渡置候番付ケ証札持参、看病人案内ニ而対面可致、尤飲食之品差贈候節は、医師之改を請可申候事
一 此外之儀は、寄宿之上、諸事其筋之もの差図を受け可申候事
已上
養生所規則(現代語釈)
一、治療を希望するものは、住んでいる町・村の役人と身元保証人の名前を記した印紙書付を二枚用意し、保証人と一緒に直接養生所を訪れ、一枚を門番所に差し出し、もう一枚は玄関まで持参し、役人の立会いのもとで医師に検査してもらい、入院すること。
ただし養生所で身元の確認を行うので、住んでいる町・村の乙名・散使(長崎の地役人)に届け出たうえでやってくること。もっとも乙名・散使から養生所まで申し立てる必要はなく、当人たちが直接きてもよい。
一、夜具・寝衣などは備えつきのものがあるので持参する必要はない。ただし自分のものを持参したい場合は、医師の検査の上で許可する。
一、病気が快方に向かい、歩行などに差し支えがない者は、服薬は引き続き継続するが退院させ、日を定めて通院して診察を受けること。
一、治療希望者で、身元のしっかりしたものは、入院中に一日一人六匁(現在の貨幣価値で一万円程度)を、一切の入院費として納めること。全快した後でも、その前でもよいので、都合でき次第、納めるものとする。
一、付き添いの看病人を召し連れて入院する場合、一部屋借りることを希望するものは、一切の入院費用として一日十二匁(二万円程)を、右と同様の手順で、納めること。
一、市郷に住む者の内、身元のはっきりしないものへは薬剤を出すので、右と同様の手順で、一人一日二匁五分(四千円程度)を納めること。
ただし、極貧のものたちは、場合によっては、入院費一式を納めなくてもよい。
一、病人の親類や、その他見舞いの者については、前もって配布する番号付き証明札を持参し、看病人の案内のもとにて対面すること。もっとも飲食物を贈る場合は、医師の検査を受けること。
一、その他については、入院した上で、係りの者の指示に従うこと。
以上
ボードイン(抱道英)が養生所でおこなった医学講義の筆記録です。内容は生理学全般を網羅しており、脳や神経の機能についても詳細な講義が行われました。 |
※展示・解説作成にあたってご協力頂いたW.ミヒェル氏に感謝申し上げます。