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■ 会期 前期:2008年6月14日(土)〜2008年7月14日(月) 後期:7月18日(金)〜8月31日(日) ■ 会場 長崎歴史文化博物館3F企画展示室 ■ 主催 長崎歴史文化博物館
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天文・測量を学んで地図をつくり、医学を学んで病と戦う。江戸時代の人々が残した科学技術にまつわる資料には、彼らのあふれるほどの好奇心と、未知の世界に挑戦する情熱が記録されています。江戸のサイエンスの豊かな世界を物語る、貴重な資料の数々を紹介します。
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伊能忠敬が幕府に提出した東日本の地図で、方角が北が下、南が上となっているのは、後代に軸装されたことによる。これは峰源助が江戸で天文修行中に、幕府天文方所蔵本から作成した写しである。海岸線の実測に基づく伊能図は、それまでの日本図にない精度を誇り、当時の科学技術の最先端を物語るものである。 |
峰源助(1825〜1891頃)と「峰文庫」
峰源助は、大村藩の暦方・天文方。諱は潔。藩校の五教館に学んだあと、嘉永3年(1850)藩に願い出て、江戸の幕府天文方であった渋川景佑の門人となり、安政2年(1855)帰藩。翌年、郷村記調べ方となり、藩内各地の測量に携わった。文久2年(1862)には、藩命で清国上海に渡航している。長崎歴史文化博物館収蔵の峰文庫は、源助および峰家に由来する資料群で、幕末期の幕府天文方における知識伝授や、地方における職業科学者の実態研究を進める上で重要な資料を多く含む、貴重なコレクションである。
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![]() この地図の識語(漢文)には、大村藩の峰源助がこの伊能図を写すことができた背景が記されている。峰はそれらを江戸九段坂にあった幕府天文方の観測所で実見し、師の渋川景佑に転写を願い出たところ「他に洩らすことのないように」と許され、欣喜雀躍して写したのであった。 || 拡大 || 拡大 || |
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峰が所有していた樺太(サハリン)の地図である。1800年前後には、樺太が島か、半島かの議論があったが、間宮林蔵の測量により島であることが確認された。間宮の探検の成果はシーボルト著『日本』でも詳しく紹介されている。 |
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象限儀は円の4分の1の扇形をしていることから四分儀とも呼ばれ、天体や山の高さ(角度)を求めるもの。方位器はコンパスのことで、2本立てられたスリットを通して測定することにより観測の精度を高めた。いずれも江戸時代の地図作成に用いられた測器である。 |
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大村藩が作成した領内各村の詳細な調査書で、地勢・人口・産業など細部にわたって記録されている。江戸の天文修行から大村に帰った峰源助は、この事業の調べ役として領内を測量し、その功により十石を加算された。首巻には、総調役・測量方として峰の名があり、その下に測量方手伝いとして5人の名がある。 |
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峰が郷村記編纂のために大村藩の領内を測量・調査してまわった時の草稿群。その調査範囲には、現在の滑石・長与・時津・福田も含まれる。郷村記をまとめるような大きな仕事をした峰の存在は、幕末期の長崎周辺で、高い技術力と学力を身につけた人々が活躍していたことの一例と言えよう。 |
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郷村記がまとめられる文久2年、峰は藩命により幕府派遣船「千歳丸」に乗り、清国上海に行く。この写本はその見聞内容をまとめたもので、フランス・イギリスの衛兵が市街にいることや、清国の人々の疲弊している姿などを記している。千歳丸には高杉晋作、五代友厚なども同乗していた。 |
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渾天儀は、東アジアの伝統的な天文器具で、観測用の大型と、計算や説明の補助に用いる小型のものなどがあった。これは天空の模型として計算や説明の補助に用いたと考えられる小型のもので、木製の輪は地平線、子午線、赤道、黄道などをあらわしている。 |
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これは観測用渾天儀の模型である。円環の中心には玉衡(ぎょっこう)と呼ばれる棒状の筒が配置される。これは観測用の覗き筒で、天のあらゆる方向に向けることができた。江戸時代には、中央に地球を設置するものや、環の種類が多いものなど、様々な種類の渾天儀が作成された。 |
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峰が観測に使用した屈折式の天体望遠鏡である。木製の鏡筒を持ち、レンズには真鍮製で折りたたみ式の蓋がついている。しっかりと固定して観測するための支持具があったはずであるが、現在は失われている。 |
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18世紀のロンドンで活躍した科学器具製作者G.ステロップによるグレゴリー式反射望遠鏡。英語による取り扱い説明書が現存しており、箱の内側に貼られている。由来等は不明であるが、旧蔵者が箱に毛筆で「星目鏡」と記していることなどから、江戸時代の舶載品の可能性が考えられる。保存状態も良好で、レンズもまだよく見える。 |
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江戸時代にもっとも広く読まれた天文学の入門書。峰は江戸での修行時代に本書を熟読しており、師の幕府天文方渋川景佑(号、滄州)から受けた教えを「滄州先生曰」「渋川氏曰」とみっちり書き込んでいる。峰の学習過程が分かるだけでなく、天文方研究のためにも、価値の高い資料である。 |
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望遠鏡を用いて遠地点までの距離を簡易的に計測する方法について論じた著作。その序文で峰は自身の略歴について述べている。江戸での修行時代には「朝に習い、夕に思い、研究すること6年」「難しい疑いを質問し、残された問題を探索し」など、猛勉強に励んだことが分かる。また曾祖父以来、峰家が藩暦の作成と砲術を受け継いで来たことなど、峰家のルーツについても触れている。 |
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幕府の初代天文方渋川春海(1639〜1715)が作成し、子の昔尹の名で刊行した星座図の写本である。「斎宮」「大宰府」などの星座名は日本の政治機構を模したもので、天で起きる現象と地上世界は密接な関係にあるという中国古代の思想を反映したものである。 |
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これは南北両天の天球図で、余白には望遠鏡で見た月・木星・土星の姿や観測器具も描かれている。江漢は天明8年(1788)の長崎旅行で阿蘭陀通詞本木良永と知り合い、西洋の天文地理知識を教わった。江戸に戻った江漢は、その後自然科学関係の作品・書物を多く発表しており、その知識の普及に大きな役割を果たした。 |
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地球全体を北極を中心に円形に投影した世界図。明らかに西洋式地図の特徴を持つが、原図はオランダ人J.ロビンらによる「新世界周図」(1696年頃刊)と推定される。左下の人物が持つ器具「ノクターナル」は一種の天文時計で、北天の星の位置から夜間の時刻を求めるためのもの。「新世界周図」と比較すると、本図には上部欄外に見えるキリスト教的な図像がなく、またノクターナルを持つ人物が紋付・髷姿なのが微笑ましい。
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阿蘭陀通詞本木家旧蔵資料のひとつで、1700年頃のオランダで出版された天球図である。中央には北天の星座が1〜6等級の星とともに描かれ、上部左右には、当時オランダで浸透しつつあった太陽中心説に基づく小図が付されている。 |
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本木良永が日本にはじめてコペルニクス説(地動説)を紹介した画期的な著作。内容はあまり詳しくないが、西洋でも容易には受け入れられなかったその説が、今や「学識ノ人々、今是ニ一致ス」という状況であると伝えている。これは本木家旧蔵資料の1つで、良永自身の印「本木/良永」「士清」がおされている。 |