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長崎聖堂の世界



熊本県立大学文学部 平岡研究室 制作

長崎聖堂の世界
ver. 1.0

 長崎聖堂は、江戸時代の長崎を代表する学問所で、当時の中国と日本とを結ぶ通商や文化交流にも重要な役割と貢献を果たした。しかしその重要性にもかかわらず、長崎聖堂にまつわるまとまった展観はこれまでほとんど行われておらず、今なお未解明の史料や器物も多く残されている。
 本ウェブ展示は、聖堂文庫(長崎歴史文化博物館蔵)をはじめとする関連資料を手がかりに、長崎聖堂とはいったいどのような組織で、誰がどのような活動をおこなっていたのか、またその活動は当時の日中交流にどのような影響を与えたのか、などの問いを学術的につきつめようとする試みである。資料選定にあたっては、分析がなお不十分であっても公開することに意義があると考えたものから随時取り上げる方針をとった。このver. 1.0を皮切りに今後情報を追加・更新してゆく予定にしており、博雅のご教示とご批正を仰ぎたい。なお本ウェブ展示は熊本県立大学文学部平岡研究室における教育・研究活動の成果である。(2016年4月11日 平岡記)

 第1章 学問と教育   第2章 建築と祭具
 第3章 聖堂と唐貿易   第4章 書物改





長崎聖堂とは

 正保4年(1647)の創建から明治4年(1871)の廃止まで約220年にわたって長崎に存在した儒学の学問所・孔子廟で、はじめ立山に置かれたため「立山書院」等と呼ばれたが、正徳元年(1711)に中島河畔の鋳銭所跡に移ってからは「中島聖堂」等と呼ばれた。
 一時期を除いて代々向井氏が祭酒を務め、経典の講釈をはじめとする儒学教育を行うかたわら、唐船への貿易許可証「信牌(しんぱい)」の発給や、輸入漢籍を検閲する書物改など、近世日中貿易の根幹にかかわる業務も担った。正徳元年からは孔子を祀る祭儀「釈菜(釈奠)」も執り行われ、聖堂を通じた唐人との交流も活発であった。なお現在の孔子廟(大浦町)は、明治26年(1893)に清国政府と華僑らが協力して創設したもので、近世期の長崎聖堂と直接のつながりはない。



長崎聖堂歴代祭酒

初代 向井元升以順(1609-1677)
二代 南部草寿立庵(1637-1688)
三代 向井元成兼丸(1656-1727)
四代 向井文平兼命(1710-1727)
五代 向井元仲兼般(1712-1789)
六代 向井斎宮兼美(1734-1794)
七代 向井元仲富(1770-1827)
八代 向井雅次郎兼哲(1792-1867)
九代 向井鷹之助兼通(1827-1889)

正保4・1647〜万治元・1658年
延宝4・1676〜延宝7・1679年
延宝8・1680〜享保10・1725年
享保11・1726年
享保12・1727〜明和2・1765年
明和2・1765〜寛政8・1796年
寛政8・1796〜文政10・1827年
文政10・1827〜安政4・1857年
安政4・1857〜明治4・1871年

12年間 玄松 字以順・素柏 観水子・霊蘭
4年間 陸沈軒
46年間 字叔明 鳳梧斎・無為・禮焉子・淳徳
11か月間 幼名槌十郎 字元欽 敬焉子温恭
39年間 幼名豹三郎 後に元仲、斎宮
31年間 幼名豹之助 延美・外記 字良翰 洙川
32年間 字大賚 銭渓
31年間 字于保 紫溟・閑斎 後に外記
15年間 後に文平 字達夫 銭塘



凡例・更新履歴

・展示資料は、とくに所蔵先等を明示したもの以外は、すべて長崎歴史文化博物館の収蔵品であり、その各々に同館のオリジナル番号を併記した。史料の翻刻にあたっては、常用漢字を基本とし、適宜句点(。)、読点(、)を加えた。
・2016年7月1日 ver. 1.0 公開





1.学問と教育

聖堂は、江戸時代を通じて長崎における学問・教育の中心であった。経典の講釈には地役人子弟をはじめとする長崎町人が多く参加し、特に正徳元年(1711)の中島河畔移転以降は「長崎の上下この門を潜らぬ人は無かったので、長崎の人材は悉く当聖堂の出身であった」(『長崎市史』地誌編)とさえ言われている。また唐通事を対象とする地域別中国語(南京語・福州語等)の講習や、長崎の歴史・名勝にまつわる書物編纂の拠点ともなるなど、その学術面での役割と貢献は多岐に渡った。



1-1 講義公開掲示板

長崎聖堂 天保13年(1842) 聖堂・額聯5

聖堂の前に掛けられた大振りの掲示板(幅約1m)で、今後毎日正午からの経典講釈を、地役人子弟のみならず、広く一般に公開する旨布告したもの。これは天保13寅年(1842)12月に長崎奉行の命により始められたもので、『長崎市史』地誌編によると「当時長崎市民等旧弊に泥み、倫理に背せる行為多く廉恥を忘れ風習宜敷からざる為め、其の救済方法の一として此の挙を起し四民に均しく講堂に詣り講演を聴かし」めるためだったという。

(翻刻) 此度当聖堂学問所ニ/おゐて毎日正九時より/講釈有之候条、地下/諸役人者勿論下賤之/ものたりとも勤向并/家業閑暇之節者罷出/聴聞たるへき者也。/寅十二月。




1-2 中島聖堂素読会出席御届

向井雅次郎 弘化4年(1847) 福田11_151



幕末期の聖堂で行われた素読・会読の出席者名簿。「未」年の二月から十一月までの各月について、出席者の氏名・役職等と「勤学」(出席日数)をまとめ、末尾には八代祭酒・向井雅次郎から届け出る旨記している。雅次郎の日記『閑斎日乗』(後掲)からは、毎月上旬立山役所にみずから出向いて「講席列名簿」を提出していたことが分かるが、これはその控えの類と思われ、現在は福田文庫架蔵ながら聖堂旧蔵文書であることが確実視される。

素読の出席者に「御時斗師俊之丞忰 上野勝馬/同 二男 彦馬」、すなわち上野勝馬・彦馬兄弟の名が見えることから、成立年の「未」年は弘化4年(1847)と推定され、当時10歳の彦馬は兄とともに日々聖堂で素読に励んでいた。二人の出席率は他の学生にくらべてかなり高く、熱心な学生だったことがうかがえる。上野兄弟以外にも「代官手代多一郎忰 塚田槌三郎」のような向井家姻戚や、「紅毛通詞 馬田新三郎」「同 横山源三郎」などの阿蘭陀通詞、また町乙名の子弟や長崎会所請払役、書物改手伝、瀬崎御蔵頭、長崎村庄屋見習など、様々な地役人やその子弟が参加していた。聖堂で学んだ人々にまつわるこの種のリストはほとんど現存しておらず、貴重な史料である。


長崎聖堂における素読(『長崎市史』地誌編より)
素読 最初三字経を課し夫れより孝経、大学、中庸の読方を終へて論孟に移り次に五経、小学に至るを一期とす。此の一期を終ふれば他課に移るを許さず毎日復習反覆を重ねしめ、一字の不審をも忽にせず質問せしめ斯くて五ヵ月を経過したる後素読試験を行ふ。




1-3 向井家由緒書

向井斎宮 江戸中期 福田13_166

歴代の聖堂祭酒をつとめた向井家の由緒書で、先祖の左近太夫から江戸中期の五代祭酒・元仲までの事跡をまとめたもの(ただし冒頭部は欠)。内容から、著者は六代祭酒・向井斎宮と分かるが、本文中の「私」(五代・元仲のこと)という字を「元仲」と見せ消ちで改めることなどから、元仲の由緒書をもとに後代に斎宮が作成したもの(の草稿)か。福田文庫には、向井家旧蔵と確実視される史料が複数見られ(上掲「中島聖堂素読会出席御届」参照)、これもその一つである。(翻刻・注釈




1-4 元成日記

向井元成 享保元〜2年(1716-1717) 聖堂920-3

長崎聖堂中興の祖である三代祭酒・向井元成の日記で、享保元年12月8日から同2年正月9日まで31日分の断簡。元は四つ折りにして横帳に綴じた冊子の一葉であったと思われるが、他葉の現存は確認できない。

この時期の元成は、日々『孟子』の講釈を行いつつ(31日中14日間)、立山役所にも頻繁に出仕しており、長崎奉行・石河土佐守政郷や、当時長崎目付で翌年奉行となる日下部丹波守博貞との親密な交流も窺い知られる。その他「草拙(唐通事で聖堂助教の盧草拙)」「渡部玄的(老)」「寿世市」「霞酔(老)」「立元」などの名前がよく見えるほか、享保元年に始まった「通事会」(唐音勤学会のこと。下述)やその賄料拝受についての記事(享保元年12月12日、20日、24日)も見えている。


唐音勤学会(唐韻勤学会、通事会とも)
 享保元年(1716)に始まった、大小唐通事を指導者として、稽古通事たちに南京語・福州語・漳州語など地域別中国語を教える講習会。聖堂の明倫堂で行われ、一時中断されたが、天明8年(1788)、天保10年(1839)に再開された。




1-5 元仲日記

向井元仲 享保20年(1735) 聖堂920-5-1

五代祭酒・向井元仲による、享保20年(1735)6月朔日から9月4日までの日記(仮綴じ横帳一冊)。元仲は、享保12年(1727)に弱冠16歳で向井家を継いで祭酒となり、この時まだ24歳だった。信牌割方(発給業務)や書物改めをはじめとする日常業務、唐船主による修復銀の寄進や書物の虫干しなど聖堂管理にまつわる諸事、また息子・豹次郎の生誕や京都の実父・向井元桂を見舞うための上京の様子など、細部にわたって克明につづられている。




1-6 閑斎日乗

向井雅次郎 文政元年〜天保10年(1818-1839) 聖堂280-8〜25

第八代祭酒・向井雅次郎(号閑斎)の日記で、欠はあるが文政元年から天保10年(1818-1839)まで計18冊(年)分が伝存する。近年若木太一氏らによる翻刻紹介によってはじめてその全貌が明らかとなった。江戸後期の聖堂の日々の営みや、教育、文事、また聖堂を通じた日中交流の実態が浮かび上がる重要史料である。




1-7 長崎実録大成(長崎志正編)

田辺茂啓編 宝暦10年(1760)自序 聖堂210-1



向井元成の門人で聖堂書記役の田辺八右衛門茂啓(1688-1768。方業・功山)は、当時まだ長崎開港以来の歴史を十全にまとめた書物がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書を完成させた。明和元年(1764)奉行所に献上後は『長崎志正編』と書名が改められ、八右衛門の没後に聖堂で編纂された『長崎志続編』とあわせて、長崎研究の基礎資料として現代まで幅広く利用されている。

中島聖堂の蔵書印「銭渓書館」が捺されるこの聖堂文庫本は、存十四巻の端本ながら、八右衛門の漢文自序と樊元袞(唐通事・高尾嘉左衛門。?-1775)序にはそれぞれ引首・姓名・雅号の各印が捺されるなど自筆本の特徴を有している。他方、全編にわたって修正・補訂の貼紙が付されており、各冊大尾に見える墨書「寿恒」は、『長崎志続編』の編者の一人として知られる野間寿恒のことだろう。以上の特徴は、これが八右衛門自筆本に由来し、その後聖堂に引き継がれ、代々利用された写本であったことを物語っている。『閑斎日乗』にも「長崎志」の謄写や奉行所からの指示にまつわる記事が散見され、聖堂がその編纂拠点であったことが分かる。




1-8 長崎名勝図絵(原稿)

饒田喩義・野口文竜編 石崎融思・打橋竹雲画 文政年間(1820年代) 210-59



長崎奉行筒井和泉守政憲の命により、聖堂助教の饒田喩義らが編纂した、長崎の名勝・旧跡・風俗にまつわる書物。『閑斎日乗』には、文政元年9月22日に「臨實斎[=饒田喩義]之講経借其所編長崎図会一冊」、同29日「夜読所饒田實斎著長崎図志」、同10月18日「写饒田實斎之所著長崎名勝図会今日起筆」、同22日「終日写長崎名勝志」、同26日「終日写長崎名勝志」、同11月7日「終長崎図絵謄写」と見えるため、同年末には草稿が出来上がっていたと思われる。

これは昭和6年(1931)に長崎史談会が刊行した翻刻本の底本となった写本で、長崎市役所、長崎市立博物館を経て、現在は長崎歴史文化博物館の収蔵(ただし聖堂文庫ではなく旧市博一般文書)となっている。本文体裁はそのまま版下に用い得るほど整っており、図も精密な筆致で描く。

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2.建築と祭具

聖堂の建築は、その維持に在留唐人と奉行所の双方が深く関与し、さながら中国と日本を結ぶ文化交渉の架け橋であった。大部分は明治以降に解体され失われたものの、聖廟(大成殿)と大学門(杏壇門)の一部が興福寺境内に移築・現存し、また代表的な聯・額は聖堂文庫に伝来している。正徳元年(1711)からは、孔子を祀る祭儀「釈菜(釈奠)」が執り行われたが、その祭具類も聖堂文庫に伝来しており、それらを通じてかつての聖堂建築・釈菜を復元することが可能となる。



2-1 中島聖堂遺構大学門

興福寺境内 昭和34年(1959)移築 長崎県指定有形文化財

明治初年に廃止となった聖堂の建築は、その後荒れ果てて大部分が解体されたが、有志の活動と興福寺の協力により、聖廟(大成殿)と大学門(杏壇門)が規模を縮小しながらも移築・現存しており、往時の威容を伝えている。

大学門(杏壇門)
中央と左右の門戸をすべて開放した状態の写真(2014年3月14日撮影)。「大学門」という名の由来である、大学章句を記した中央の朱塗り門扉も取り外され、奥には聖廟(大成殿)が見える。

大成殿(正面)
大正初期の写真(下掲「長崎史料写真」参照)と比較すると間口が狭く、かなり規模が縮小されたことが分かるが、往時を偲ばせる貴重な遺構である。

大成殿(額「萬世師表」)
現在入口に掛けられている額で、道光19年(1839)、元和縣文学士・韓曜の書である。後述の聯とともに、道光期(天保期)に新調されたものだろう。

大成殿(天井)
格天井に花卉図を配する。『長崎聖堂ニ関スル調査書』は画者を石崎融思とし、移築時に省かれたと思しき一枚も伝存している(後掲「聖堂天井絵」参照)。なお現在の大成殿堂内には、他にも木主などの遺物が多く残されており、今後の詳細な調査・分析が待たれる。




2-2 長崎聖堂略図

製作者・成立年不明 3_66-2

中島聖堂の略図面。詳しい由来は不明だが、とくに向井氏の居宅について柱の配置まで詳しく記している。その他聖廟、崇聖祠、杏壇門、明倫堂をはじめとする堂宇の配置や間数を記載する。かつての聖堂建築を知る上での基礎資料と言える。






2-3 長崎聞見録

広川獬 寛政12年(1800) 13_332

長崎の名所旧跡をまとめた見聞録。聖堂については、杏壇門・聖廟や乾隆期の聯(後掲)等の図を収録する。図の正確性には難があるものの、額「明倫堂」や聯「集大成徳超辟聖/仰彌高道配上天」など、他の資料では確認できない図像も含んでいる。




2-4 書簡〔唐船寄進銀の件〕

官梅三十郎・穎川四郎太より向井元仲宛 五月朔日(享保19・1734年頃) 聖堂520-4-3

唐通事両名から向井元仲に宛てた書簡で、先日聖堂を拝礼した「丑寅」年計37艘の唐船主らが、聖堂修復料として氷砂糖500斤ずつの寄付を申し出た旨伝えている。その内容が『元仲日記』享保20年6月27日記事の内容と符合すること等から、「丑寅」は享保18・19年(1733・34)と確定される。これ以降も、在留唐人らはしばしば聖堂に寄付を行っており(『閑斎日乗』、『長崎市史』地誌編等)、聖堂建築の維持に果たした寄与は多大なものがあった。(翻刻・注釈




2-5 長崎史料写真

田口茂助 大正初期 3_132-2

「長崎史料写真」と題する三冊本アルバムに収録される、大正初期の聖堂建築を写した写真である。その第一冊大尾に永島正一氏が付した昭和33年識語によると、このアルバムは大正初期に築町呉服商の田口氏が、古賀十二郎翁の指導のもと、市販のため作製したものという。現在は失われた史跡・資料の写真を豊富に掲載しており、聖堂建築についても他にはない貴重な情報を提供している。

長崎聖堂外観
聖堂の外観を、中島川の対岸から写した写真。中央は大門。

大学門(杏壇門)
現在地に移築される前の大学門の姿。

額「萬仭宮墻」
この写真の額は、銘が「乾隆辛巳孟春之吉」「雲間顧孝先敬書[印:顧氏孝先][印:振生之印]」と読めるため、『長崎名勝図絵』に見える「[杏壇門]上に額あり。萬-仭 宮-墻と書す。…乾隆辛巳の年雲間顧孝先の書なり」がこれにあたると思われる。この額は現存が確認できず、この写真だけが往時の姿を伝えている。



大成殿および崇聖祠
かつての大成殿とその隣の崇聖祠を写した貴重な写真。すでに荒廃の色が濃く、とくに崇聖祠の破損は著しい。この写真と比べると、現存遺構は間口がかなり縮小されていることなどが分かる。額は現存遺構に掛けられている道光19年(1839)韓曜書の「萬世師表」、聯は同じく韓曜による同年のもの(聖堂額聯07。下掲)である。

額「萬世師表」
聖堂文庫に現存(下掲)

孔子像
聖堂文庫に現存(下掲)。背景に見える額「崇聖祠」も現存(下掲)。






【大成殿(聖廟)】


2-6 孔子像

江戸中期 青銅製 聖堂・像1

長崎聖堂の本尊にあたる孔子像で、かつては大成殿(聖廟)の正面壇上、全面龕中に安置されていた(『長崎市史』地誌編)。『長崎名勝図絵』は「清商等が鎮供する所なり」と清人の献納像とするが、『長崎聖堂ニ関スル調査書』は「聖像ハ漢製ニシテ明末帰化人呉氏ノ齎ラス処ト云フ」と明末帰化人呉氏の請来とする。その由来を確定するためには、さらなる史料発掘や科学的分析などが必要と言えるが、聖堂を通じた日中交流を象徴する貴重な孔子像である。




2-7 桐鳳凰図(長崎聖堂大成殿壁画)

小原慶山 江戸中期 絵(長崎)243

かつて大成殿で、孔子像を安置する聖壇の後壁を飾っていた花鳥図の大作。慶事の象徴である桐に鳳凰と、金壁の輝きにより、孔子や聖人を祝い尊ぶ空間としたものか。小原慶山は丹波の人で、江戸で狩野派を学んだあと長崎の河村若芝の門で漢画を修めた。長崎奉行に仕える唐絵目利と御用絵師を兼任し、後代の唐絵目利の画風にも多大な影響を与えた。慶山が残した大作では、この聖堂大成殿壁画と福済寺書院壁画の二つがよく知られるが、後者は原爆により灰燼と化した。本作も損傷が激しいものの、破却を逃れたことは誠に僥倖と言わねばならない。




2-8 額「萬世師表」

江戸時代 聖堂・額聯01

かつて大成殿に掛けられていたもので、『長崎名勝図絵』に「廟堂の上に萬世師表の額を掲ぐ。乾隆帝の御筆なり」と見えるのがこれと思われる。中央に乾隆帝の筆と伝わる「萬世師表(万世の模範、すなわち孔子のこと)」の四字を配し、縁には木彫で雲龍をほどこした威風堂々たる額である。

聖堂文庫器物の現存状況を見ると、額・聯はおおきく乾隆期と道光期の二種に大別できる。この額は乾隆帝御筆の伝承からも、おそらく乾隆期のものと推定され、下の聯とともに道光19年(天保10・1839)の新調まで使用されたものと思われる。なお道光期の「萬世師表」額については、上掲「中島聖堂以降大学門」参照。




2-9 聯「廟貌森然蓬海肅陳耝豆・儀範卓爾崎山尊視衣冠」

顧孝先書 乾隆26年(宝暦11・1761) 聖堂・額聯06

上の額「萬世師表」とともに大成殿に掛けられていた聯。『長崎名勝図絵』には「対聯には廟-貌 森-然トシテ 蓬-海 肅-二陳ス 耝-豆ヲ 儀-範 卓-爾トシテ 崎-山 尊-二視ス 衣-冠ヲ一の句を分書す。顧孝先の筆なり」と見える。これを含む乾隆期の額・聯はいずれも痛みが激しいが、江戸中期の聖堂建築を今に伝える貴重な史料である。

 



2-10 聯「廟貌森然蓬海肅陳耝豆・儀範卓爾崎山尊視衣冠」

韓曜書 道光19年(天保10・1839) 聖堂・額聯07

道光期に新調された大成殿の対聯。大正初期の写真(前掲「長崎史料写真」)で掛けられているのはこの聯だろう。損傷や剥離が激しい。

 



2-11 聖堂天井絵

作者不明 江戸後期か 絵(長崎)8

これは聖堂文庫資料ではないが、「聖堂天井絵」として伝わるもの。その外見的特徴は、大成殿現存遺構内の天井絵とおおむね一致するため、かつてその一枚であったものが規模縮小により省かれたものか。




2-12 天井絵控

江戸時代 聖堂710-1

大成殿天井絵(花卉図)の種類と配置を記した控え。同封の紙片に「合天井惣数七拾枚<草木数百三十二/種>四季草花目録手扣」と墨書する。近世期の大成殿天上絵の全容を伝える貴重な資料。




2-13 棟札〔大成殿〕

向井元成 正徳元年(1711) 聖堂・棟札01

中島河畔に移転・創建成った聖堂大成殿の棟札。表に向井元成による正徳元年(1711)7月27日付の願文、裏面には「九州肥前彼杵郡長崎府大成殿講堂 向井元成藤原兼丸始建」として、奉行四名、町年寄、董役、木匠の氏名を墨書する。

(表面翻刻) [         ]豁□山色門開達/水声□姱輪奥美欲致切磋精木鐸伝余響麟/経詔(後)生応勤従実践深戒釣虚名記誦労書肆/文章費管城在家脩孝弟報国竭忠誠学業終/無絶仰長助泰平/正徳元年歳在辛卯孟秋二十七日




2-14 棟札〔大成殿〕

田辺茂啓 宝永8年(正徳元・1711) 聖堂・棟札02

田辺八右衛門茂啓による聖堂大成殿上梁文を記した棟札。上掲の元成棟札よりやや前の宝永8年(正徳元・1711)4月21日付で書かれたもので、中島河畔への移転の経緯や、聖堂の意義・役割を記した後、上梁に関する詩文が続く。元成棟札とともに、現存遺構の創建時の様子を伝える貴重な棟札である。

(翻刻)
  崎陽大成殿上梁文
崎建 夫子廟故在西北隅我向井先生監此者有年常以教導為已任竊憂堂舎偏狭不便於多容書生而鎮君別佐駒久四明府志切化民深/是其所請乃択勝于邑東帯山襟川闢地五百有余歩大脩土木之功邑人争助効力者不知其幾宮墻黌廈沼池園囿不日将成蓋比之旧地其/広十倍比之旧廟其高数尺而経営結構之美亦異於昔日之観矣嗟乎土地雖不広廟殿雖不高其於 夫子之徳寧為之加損乎然凡民之於/聖人之道莫有鼓舞之者則不能興起今幸得賢明之君示民以其所趨向而恢其堂舎則使向之不便於多容書生者将任群集而無礙焉因此/以講孝悌忠信之義由寡而及衆則聖人之道将大明於崎而為人子者能孝為人臣者能忠斯蓋 夫子脩詩書以遺万世之意而今日明府允/先生之請択勝恢廟之謀亦於是乎在今茲宝永辛卯夏四月念一謹卜日上梁門人方業叨蒙厳命六韻倶作用登梁欐与諸生歓歌
大成殿抛梁東 旭日瞳瞳昇碧空 道徳濔充四維外 光輝並照自無窮
大成殿抛梁西 滄海一方天共斉 聖学淵源知所向 風波煙浪路何迷
大成殿抛梁南 瀲灔清泉緑似藍 千載化行何所比 水声日夜響前潭
大成殿抛梁北 尖嶽峋峯争嶷嶷 何羨泰山万仭高 杏壇長仰上天徳
大成殿抛梁上 昭代文章民具仗 若不朝廷慕聖風 如何道学及郷党
大成殿抛梁下 地富農商謡四野 却恐人人不自脩 廟堂云築是天嘏
伏祈上梁之後杏壇発栄木鐸再振詩書礼楽之遺訓長行於閭里使此民一為淳美之俗維 聖神降照万斯億年
   門下晩生田邉方業薫沐百拝




【杏壇門(大学門)】


2-15 聯「萬世文章祖・歴代帝王師」

乾隆26年(宝暦11・1761年) 顧孝先筆 聖堂・額聯08

杏壇門(大学門)門扉に掲げられていた対聯。『長崎名勝図絵』に「[杏壇門]上に額あり。萬-仭 宮-墻と書す。下に萬-世 文-章ノ租 歴-代 帝-王ノ師の対聯あり。共に乾隆辛巳の年雲間顧孝先の書なり」と見えるのがこれにあたると思われる。額の現存は確認できないが、大正初期の写真が残されている(前掲「長崎史料写真」)。なお現存遺構に掛けられる額「萬仭宮墻」は、清国駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(明治20・1887)の書である。乾隆期のものと現存遺構の聯との間に、道光期の額があった可能性が考えられるが、史料等確認できず不明。

 



2-16 聯「万世文章祖・歴代帝王師」

韓曜書 道光19年(天保10・1839) 聖堂・額聯09

道光期に新調された杏壇門の対聯。

 



【崇聖祠】


2-17 額「崇聖祠」

王多益書か 道光25年(弘化2・1845)か 聖堂・額聯03

かつて崇聖祠の祠頭に掲げられていた額(『長崎市史』地誌編。以下同じ)。痛みが激しく、印2点も判読不能だが、『長崎市史』地誌編は王多益とする。同じく王多益による道光25年銘を持つ下の額「惟聖生聖」と様式・材質とも類似することから、同時期に作成されたものと思しい。

 



2-18 額「惟聖生聖」

王多益書 光25年(弘化2・1845) 聖堂・額聯04

崇聖祠の正面楣頭に掛けられていた額。銘は「道光二十五年夏六月/十四齢童子王多益敬書」と付しており、弱冠十四歳の王多益の筆によるもの。

 



2-19 対聯「風雨盛防山上遡水源昭式穀・豆□分闕里新開廟貌峙扶桑」

王元珍書 道光24年(1844) 聖堂・額聯11

かつて崇聖祠の祠頭に掛けられていた対聯で、清人王元珍の筆である。元珍は杭州銭唐の人で、道光21年(1841)から咸豊10年(1860)まで辨銅官商(日本銅調達のための清朝官許商人)をつとめ、また書・画をよくした。彼が官商をつとめた19世紀後半には太平天国の乱のため唐船の長崎来航が不能になり、近世日中貿易は終焉を迎えた。この元珍もまた、太平軍の蘇州進出で行方不明となったという(劉序楓論文)。なお元珍の出願により弘化4年(1848)5月に建碑された「重修至聖先師廟碑」が、現在興福寺の大学門遺構に向かって左手前付近に現存する。

 



【明倫堂】


2-20 聯「吟壇載啓争承尼父淵源」

沈陶筆 江戸中期以降 聖堂・額聯10

かつて明倫堂に掛けられていたとされる聯であるが、現存するのはこの片方のみである。銘は「元老先生/苕水沈陶」。明倫堂は享保年間の創建だが、天保13年(1842)に結構古形を守り改築された(『長崎市史』地誌編)。なお明倫堂の額は、前掲『長崎聞見録』に図が掲載されるが、『長崎市史』地誌編の什宝物一覧にも見られず、早くに失われたのかもしれない。

 



【不明】


2-21 額「先師廟」

江戸時代 聖堂・額聯02




2-22 聯「振鐸偏遐陬人子主恩君臣主敬入極士以五倫豈隹華夓・乘桴□□□日月所照霜露所墜聖教訓於四海莫不尊親」

王元珍書 道光23年(1843) 聖堂・額聯13

詳細不明ながら、道光の新調時にあわせて作られたものか。王元珍はここでは「浙江杭州郡庠明経博士王元珍敬題」と記すことから、杭州郡の学校で教えた経歴もあったらしい。

 



2-23 聯「子臣弟友教以人倫東海而遙其義一其揆一」

王元珍書 年代不明 聖堂・額聯12

『長崎市史』地誌編では対聯とするが、一方の「乘桴□□□日月所照霜露所墜聖教訓於四海莫不尊親」は現存が確認できない。

 



2-24 聯「恒久無彊・晋豊大有」

不明 聖堂・額聯14

保存状態もよく荘厳かつ重厚な聯だが、年代やどの堂宇のものだったかなど詳細不明。

 



【祭具】


2-25 邉(へん)

江戸時代 真鍮製 聖堂・祭具8-1

釈菜の時に用いられたもの。『長崎名勝図絵』によると、カヤの実、ギンナン、レンニク、イリコ、かた塩、干魚、ナツメ、クリ等乾物が盛られた。『長崎聖堂ニ関スル調査書』によると、大成殿と崇聖祠の各8個ずつと記されているが、現存するのは全部で10個である。




2-26 箱(邉)

文化6年 木製 聖堂・祭具8-9

邉を収める箱。蓋に「文化六年己巳二月/聖廟祭具邉数八/明倫堂記」と墨書し、明倫堂に保管されていたようだ。




2-27 豆(とう)

江戸時代 真鍮製 聖堂・祭具9-2

釈菜の時に用いられたもの。『長崎名勝図絵』によると、にらのひたし、菜のひたし、芹のひたし、竹の子のひたし、さしみ、鶏卵、豚のきも等、ひたし物が盛られた。『長崎聖堂ニ関スル調査書』によると、大成殿と崇聖祠の各8個ずつと記されているが、現存するのは全部で9個である。




2-28 箱(豆)

江戸時代 木製 聖堂・祭具9-10

豆を収める箱。蓋に「文化六年己巳二月/聖廟祭具豆数八/明倫堂記」と墨書する。




2-29 爵(しゃく)

江戸時代 青銅製 聖堂・祭具17

『長崎名勝図絵』によると、釈菜の時に酒を盛るのに用いた。『長崎聖堂ニ関スル調査書』は大成殿と崇聖祠の各3個ずつと記し、3個が現存する。




2-30 簋(き)か

江戸時代 銅製 聖堂・祭具11

『長崎名勝図絵』に見える、釈菜の時に稲、粱(あわ)を入れたものか。




2-31 簠(ほ)か

江戸時代 銅製 聖堂・祭具13

『長崎名勝図絵』に見える、釈菜の時に稷・黍(きび)を入れたものか。

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3.聖堂と唐貿易

長崎聖堂は長崎奉行の管理下で唐貿易を統制していた。唐船に対する「信牌」(貿易許可証)発給は、入港数の管理と貿易総額(定高)の安定に直結する唐貿易の枢要であったが、その任は唐通事ではなく長崎聖堂の排他的業務であったことが、聖堂文書から明らかとなる。唐船主らがたびたび聖堂に寄進・寄付したことも信牌の確保と無関係であったとは考えられず、聖堂を通じた日中交流はそうした政治・経済面からも捉える必要がある。




3-1 信牌(長崎通商照票)

范継宗(はんけいそう)宛 文化2年(1805) 個人蔵(玉名市立歴史博物館こころピア寄託)

文化2年2月26日付で南京船主・范継宗宛に発給された信牌。貿易許可額や使用年度のほか、信牌を持参しない者には貿易を許可しない旨などが華文(中国語)で書かれている。これは近年発見された新出史料で、現在は個人蔵であるが、かつては熊本県玉名市高瀬の商家水上家に伝来したもの。水上家は、寛永・正保頃に商業活動で家を興し、明治初年にかけて最盛期を迎えたとみられ、造酒や質業が商売の中心であった。どのような経緯で水上家の所蔵となったかはなお不明で、今後の解明が俟たれる。

牌主(信牌名義人)の范継宗は、明和8年(1771)から天明元年(1781)の間に計8回、官商・范清済(はんせいさい)の下で「船戸」(船の所有者)として長崎に船を出した人物であったが、彼自身が長崎に渡航したという記録はなお確認できない。ただし彼宛の信牌は、天明元年(1781)から嘉永元年(1848)までの67年間にわたって計31通発給されたことが「割符留帳」「配銅証文」(下掲)等の資料から確認できる。




3-2 信牌(長崎通商照票)

李亦聖(りえきせい)宛 文化2年(1805) 玉名市立歴史博物館こころピア・水上家文書52

文化2年(1805)4月6日付で南京船主・李亦聖宛に出された信牌。これも高瀬の商家・水上家に伝来したもので、現在は玉名市立歴史博物館こころピア・水上家文書の架蔵である。

牌主の李亦聖は、享保年間(1716-1736)に6回長崎に入港したことが「唐船進港回棹録」「信牌方記録」等の史料から分かり、また現在のところ享保7年(1722)から嘉永6年(1853)までの131年にわたって計34通の信牌が彼宛に発給されていたことが確認される。なおこの信牌は、現在は裏打ちを施されているが、旧蔵者の水上家で保管されていた際は簡易表装の上、床の間に飾られていたとのことである。




3-3 信牌(長崎通商照票)

楊敦厚宛 安政4年(1857) B)17_11-2 国指定重要文化財

これは安政4年(1857)8月30日付で南京船主楊敦厚(ようとんこう)宛に発給された信牌で、来る「乙巳年」に銀高約9500両の取引を許可する文面を持つ。ただし「乙巳年」は弘化2乙巳年(1845)のことで、幕末期にはこのように使用年度が実際の発給年より前倒しの信牌を発給することが常態化していた。

この信牌には袋も現存しており、中央に「信牌壹張給南京船主楊敦厚」と墨書する。またその両脇に「割符留帳」(下掲)の該当部と同文・同筆の朱書で「戊午七月廿九日夜入津/代 在留船主 程稼堂 脇船主 楊少棠 午壹番」と記すことは、これが発給時の袋であることを裏付けている。

 




3-4 割符留帳

長崎奉行所 天保2〜文久元年(1831-1861) B)17_2-3 国指定重要文化財

「割符留帳」は信牌の発給原簿で、正徳期から幕末まで約150年分が存在したはずであるが、現存するのは文化12年〜文政13年(1815-1830)分と、この天保2年〜文久元年(1831-1861)分の2冊のみである。帳簿の形式をとるが、一丁毎が一船分で、牌主(信牌の名義人)や船主(受取人)の名前、また発給に立会った唐通事らの署名・捺印などから成る。各丁冒頭には信牌本紙との割印がみられるが、その安政4年(1857)「巳弐番船」の割印を、上掲の同年発給楊敦厚宛信牌と突き合わせると、元の印章「永以為好」が復元され、確かにこの原簿に基づいて発給されたことが分かる。この突き合わせ作業は、かつて来航唐船から信牌を回収するごとに、聖堂祭酒が長崎奉行所立山役所の御用部屋で行った作業だった。




3-5 配銅証文(南京丙寅年當番牌主范繼宗該販銀額配銅之数)

文化2年(1805)2月付 聖堂660-402

これは「配銅証文」と呼ばれる文書のひとつで、先行研究では、唐船側が長崎で、幕府の銅輸出量に関する規定を遵守することを約束した証明書とされる(彭浩『近世日清通商関係史』)。『長崎実録大成』寛延2年(1749)の条には、同年幕府が年間入港唐船数を15艘と定める一方、船主に配銅証文の提出を義務付けたと見えるが、聖堂文庫には同年から文久元年(1861)までの配銅証文686点が現存するため、聖堂がその管理を担っていた可能性が高い。

唐船は長崎入港直後に信牌とともに配銅証文も奉行所に提出することが義務付けられていた(『唐船入津ヨリ出帆迄行事帳』)。配銅証文は信牌ごとに作成されたと考えられるため、その内容からは、対になる信牌の牌主名・使用年・配銅額等の情報をうかがい知ることができる。聖堂文庫に大量の配銅証文が残されることで、年ごとの信牌発給状況(年割・港割、牌主・船主名等)をうかがい知ることもでき、現存数が希少な信牌や「割符留帳」の欠を補う上でも貴重である。

本史料は文化2年2月、牌主范継宗によるもので、玉名市に現存する范継宗宛信牌(個人蔵。上掲)に対して作成したものだろう。発行者として署名・捺印する任瑞鳴は、その信牌を中国に持ち帰った唐船主と見られる。

長崎歴史文化博物館収蔵「配銅証文」一覧




3-6 信牌(未発行)

元和船主・楊少棠宛 安政3年(1856)5月 聖堂660-731

これは料紙や体裁から信牌の実物と判断されるが、三種の印は捺されておらず、また発給の日付も通常は日まで記すのに対し「安政参年伍月」で終わっている。裏面には貼紙して「安政三丙辰年新給南京轄属元和船主揚少棠一次牌副書」と墨書するため、聖堂で保管した控えの類か。『分類雑載』には、信牌の日付は唐船の出帆当日に記載すると見えるため、発行された信牌(正書)には奉行所御用部屋で日付が記入されたと思われる。聖堂文庫には他にも同種の印無し・日付未完の信牌が複数残されている(聖堂660-730文政11年9月南京船主楊敦厚宛、聖堂660-732安政3年(1856) 厦門船主楊敦祥宛)。




3-7 口上之覚〔信牌に関する件〕

向井元成 十月(享保11・1726年頃) 聖堂660-740-2


これは三代祭酒・向井元成が奉行所に提出したと思しき覚書の手控えで、正徳新例が発布された正徳5年(1715)直後の信牌割方(発給業務)の実態が明らかとなる重要文書である。ここで元成は、先日から子の文平に指導して割方を勤めさせていると述べるため、文平が家督を相続した享保11年(1726)頃の成立だろう。

まず第一条で元成は、信牌の年ごと、出港地ごとの船数割り当て作業(年割・港割)は、職務として正式に命じられたものではなく、新例発布当初は長崎奉行・大岡備前守清相が定めた割り当てに従って発行するだけだった。しかし翌享保元年(1716)、奉行・石河土佐守政郷の長崎初在勤時に中国で信牌にまつわる問題が発生し(いわゆる倭照事件)、唐船来航に想定外の乱れが生じた。そこで石河から年割・港割等につき尋ねられ、詳しい報告を提出したが、奉行は一年毎に交代するためこの問い合わせが常態となり、いつしか年割・港割まで元成の職務になってしまったという。

第二条では、自分は病身であるうえに文平はなお若輩で、定高(年間貿易総額)の遵守にかかわるこの重要任務に万一にも間違いがあってはならないため、文平を信牌割方から解任し、書物改に集中させて頂きたい旨、重ねて懇願する。

最後の第三条では、大岡備前守から、信牌割方には唐通事を決して関わらせぬように仰せつけられたこと、そのため呉藤次郎・彭城八右衛門の二人を書記役に仰せつけられた時も、彼らの稽古通事の職を取り消し、別途俸禄を与えられた、と報告している。

いずれも黎明期の信牌制の実態を伝える重要な証言であるが、とくに大岡がこの役目から唐通事を排除したという証言は興味深い。すなわち信牌本文が唐通事発給という体裁をとる(そのことは幕末まで変わらなかった)のは一種の建前に過ぎず、実際は奉行所の監督のもと聖堂に発給させることで、唐通事集団への権益集中とそれに伴う不正発給を回避し、そうした唐通事・聖堂両者の役割分担と緊張関係の下で唐貿易全体の統制を図ろうと、大岡は考えたのかもしれない。信牌の文案作成には、元成だけではなく、唐通事の彭城素軒も加わったとされるが、その役割分担の解明や、さらなる関連資料の発掘が今後の課題である。(翻刻・注釈




3-8 口上之覚〔信牌に関する件〕

向井元成 享保11年(1726)頃 聖堂660-740-1


これは上掲文書(「口上之覚」聖堂660-740-2)を奉行所に送った元成が、その返答を受けて、再度翌日に奉行所へ提出した文書の手控えと思しい。

それによると、前文書で願い出た文平の解任はどうやら認められなかったが、重要な問題なので恐れを顧みず再度願い出る内容である。特に第三・四条では、何番船の船主がどの港の船で何年入津なのかという「船割」の判断や、定高の範囲内で一年だけの港替えを命じられた場合どの港の定数に含めるのか、また定数外で臨時の発給を命じられた場合の振替の船割の判断などは、若輩の文平では心許ないことなどを、解任を願う理由として挙げている。すでに述べたように、この願いが聞き届けられることはなかったが、唐貿易の根幹を支えた信牌制の確立に、元成及び聖堂が果たした役割の重要性がよく分かる内容となっている。

この後まもなく文平は病死し、次いで元成も亡くなってしまったため、信牌割方は元成の弟子であった田辺八右衛門を経て、急養子の向井元仲に引き継がれ、幕末まで聖堂祭酒がその任にあたることとなった。(翻刻・注釈




3-9 覚〔信牌料紙に関する件〕

長崎奉行所か 亥二月 聖堂660-735

信牌に用いる紙の種類について、これまでどの紙を何年から何年まで使ったかの履歴を報告するよう求める文書で、奉行所から聖堂祭酒宛に出されたものと思しい。信牌制がはじまった当初は、料紙に鳥子大高檀紙の類を用い、外国の紙は使わぬよう定められたが、本文書からは、その後複数回にわたって違う和紙に改められていたことが判明する。いずれも中国での偽造防止のための措置だったと思われる。

(本文)
覚/唐船信牌料紙/何年迄者何紙を用ひ/何年より又何紙を/用ひ、何年ゟ当時之/用紙ニ相成哉、右/年並紙之名目/取調可申聞事/亥 二月




3-10 口上之覚〔元仲方ゟ元簡儀申出候願書之覚(草稿)〕

向井元仲 戌六月(享保15年6月) 聖堂660-741および280-64


これは現行目録では2つの別々の文書として分類・登録されているが(聖堂660-741口上之覚(断簡)〔信牌給付に関する件〕および聖堂280-64〔案文〕〔元簡儀勤方に関する願書〕)、この2つは内容や法量の一致から本来一続きの文書であったことは明白で、現行書誌には誤りも多いので、ここでは本標題のもとあわせて記述・紹介する。

本文書は、16歳の若さで向井家の養子に入り五代祭酒となった向井元仲が、着任3年後の享保15年(1730)に、野間元簡(生没年未詳)の信牌割方への復帰を願い出た嘆願書の草稿である。端裏書から、宛先は当時町年寄で後の長崎代官・高木作右衛門忠与であろう。野間元簡は、正徳5年(1715)から向井元成の信牌割方を補佐するようになり、とくに元成の老衰後は、田辺八右衛門とともにその任務を代行した。しかし元成の跡を継いで祭酒となった向井文平が急病になったことを受け、その時一条家に仕えていた京都向井家の元仲を文平の急養子に迎えるべく奔走し、信牌方からはいったん離れる結果となった。この草稿で元仲は、以上の経緯を詳しく述べた上で、元簡の同役への復帰を願い出ており、長崎向井家とその御用存続の背景が分かる史料として貴重である。なお前半部(聖堂660-741)の損傷が激しい。(翻刻・注釈




3-11 御書付〔信牌取締に関する件〕

差出人不明(長崎奉行か)田辺八右衛門宛 寅8月(享保19年(1734)8月か) 聖堂660-737

聖堂書記役の田辺八右衛門に向けて出された信牌割方に関する指示の書付である。本文中で向井元仲を「年若」とし、また長崎町年寄のことを「年寄共」、長崎奉行を「奉行」と呼び捨てることなどから、享保19年(1734)8月に奉行から出されたものか。注目すべきは、唐通事らの「内証」による頼みや、あるいは「贔屓」によって信牌にまつわる便宜等を図った場合、それは八右衛門ら信牌方の「越度(おちど)」であると明記することである(第一条但書)。ここからも奉行所が、信牌発給の権限を唐通事から切り離し、聖堂に一任することで、唐貿易の管理・統制を実現しようとしたことが読み取れる。これ以外にも信牌割方の細かな規定が明らかになる、この分野の基礎史料である。なお前半部の損傷が著しい。(翻刻・注釈

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4.書物改

長崎を通じて輸入された中国の書物(いわゆる「唐船持渡書」)は、近世日本の学問や文化に多大な影響を与えた。寛永7年(1630)にキリスト教関連書の摘発を目的にはじまった書物改は、初め春徳寺の住職が行ったが、貞享2年(1685)に向井元成が加わり、以後代々向井氏に引き継がれた。とくに享保期以降は、聖堂が持渡書のリストや大意書をまとめる業務を担当し、幕府や諸大名からの購入依頼にも対応するなど、輸入漢籍の検閲のみならず、その国内流入と情報発信の拠点となった。





4-1 享保十年乙巳四番書籍大意書

向井元成か 享保10年(1725) 聖堂370-70

唐船持渡書を引き取った書物改役は、禁制の文言、落丁、書入れの有無を中心に検閲を行い、またその概要を記した「大意書」を作成した。また「大意書」は長崎奉行に提出された後、幕府紅葉山文庫や諸大名らによる購入の目録としても用いられた。これは享保10年に来航した唐船が持ち渡った書籍の大意書で、聖堂の控えとして伝来したものだろう。




4-2 禁書目録(断簡)

書物改役 天保頃(1830年代)か 聖堂370-38-2・370-38-3

この折本仕立ての目録には、片面に禁書の書名と著者名、およびその各々の渡来年と船番、処分の内容等の情報が列挙されている。禁書が発見された際には、該当書籍の焼却や墨消しなどの措置が取られたほか、持ち渡った船主・荷主に渡海停止が申し付けられることもあった。本目録は折りたたむと手の平に乗るほど小さくなるもので、書物改のマニュアルとして用いられたものではなかろうか。またもう片面には、寛永十六から享保八年まで幕府紅葉山文庫に収めた舶載書の年別部数を列挙しており、こちらも貴重な情報である。




4-3 手頭〔程澗南禁書天学初函持渡一件〕

差出人不明(長崎奉行所か)・向井斎宮宛 辰2月(安永元・辰・1772年2月) 聖堂370-41

安永元年(1772)2月に奉行所から向井斎宮宛に出された文書。その前年に卯九番南京船主・程澗南が禁書の『天学初函』を持ち渡った事件について、同書持ち渡りの経緯・理由と、処分に関する指示が記されている。それによると程澗南は、今回は「格別之宥免」により「叱」(警告)を受けるのみで、キリスト教的な言辞に「墨消」を施した上で返却し、持ち帰るよう命じられた。この文書は、その墨消しの実施と、それが終われば長崎会所まで差し返すよう向井斎宮まで命じたもの。(翻刻・注釈




4-4 覚〔禁書に関する件〕・[禁書目録](断簡)

差出人不明(長崎奉行所か)・宛先不明(聖堂祭酒か) 江戸時代 聖堂370-38-1

河本時次郎(書物改手伝か)が見出した「圜容較義」「渾蓋通憲図説」「測量法義」の三書が、貞享2年に禁書とされた32書に含まれるかどうかや、享保5年の吉宗による一部解禁令とどう関係するのか等につき、箇条書きで返答するよう求める内容。これまで禁書が持ち渡ったことはあったのかどうかやか、その際どのような命が下されたのか等、書物改の基本的事柄についても問い合わせることから、差出人は新任の奉行かその周囲の人物ではなかろうか。(翻刻・注釈

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参考文献(主要なもののみ)

目録・図録
長崎県教育委員会編『長崎奉行所関係文書調査報告書』(長崎県教育委員会、1997年)。
長崎市立博物館編『長崎市立博物館資料目録(昭和43年5月31日現在):器物・書画・中島聖堂の部・野母崎町寄託文庫』(長崎市立博物館、1968年)。
長崎市立博物館編『長崎市立博物館資料目録:文書資料編(昭和63年3月31日現在)』(長崎市立博物館、1989年)。
長崎市立博物館編『長崎市立博物館資料目録:補遺I(平成9年3月31日現在)』(長崎市立博物館、1997年)。
長崎市立博物館編『長崎市立博物館資料図録[:補遺U(平成9年3月31日現在)』(長崎市立博物館、2002年)。

図書・論文
岩井茂樹「清代中期の国際交易と海防−信牌問題と南洋海禁案から」、小島毅監修・井上徹編『海域交流と政治権力の対応』(汲古書院、2011年)所収。
潁川君平編『訳司統譜』、長崎県史編纂委員会編『長崎県史』資料編第4(吉川弘文館、1965年)所収。
大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所、1967年)。
大庭脩編著『唐船進港回棹録 島原本唐人風説書 割符留帳』関西大学東西学術研究所資料集刊9(同朋舎、1974年)。
大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』(同朋舎出版、1984年)。
大庭脩『漢籍輸入の文化史−聖徳太子から吉宗へ−』(研文出版、1997年)。
大庭脩編著『長崎唐館図集成』(関西大学出版部、2003年)。
片桐一男校訂『鎖国時代対外応接関係史料』(近藤出版社、1972年)。
華立「清代洋銅官商范氏一族の軌跡」『大阪経済法科大学論集』第100号、2011年。
川平敏文「聖堂儒者の人と思想−南部草寿伝略」、若木太一編(2013年)所収。
熊本日日新聞、1面記事「江戸時代の中国船向け貿易許可証「信牌」、玉名市に2通現存」、2015年4月28日。
玉名市役所・秘書企画課編『高瀬湊関係歴史資料調査報告書』玉名市歴史資料集成第3集(玉名市役所・秘書企画課、1988年)。
長崎県史編纂委員会編『長崎県史』(長崎県、1963-1986年)。
長崎県の郷土史料編纂委員会編『長崎県の郷土史料』(長崎県立長崎図書館、1988年)。
長崎県立長崎図書館編『長崎奉行所 分類雑載』郷土史料叢書5(長崎県立長崎図書館、2005年)。
長崎県立美術博物館編『唐絵目利と同門』(長崎県教育委員会、1998年)。
長崎市編『長崎市史』地誌編(長崎市、1923-1929年)。
長崎市史編さん委員会編『新長崎市史:近世編』(長崎市、2012年)。
中西啓編『長崎箚記・元成日記・元仲日記』長崎学会叢書第9輯(長崎学会、1964年)。
中村質「日本来航唐船一覧 明和元〜文久元(1764〜1861)年」『九州文化史研究所紀要』第41号、1997年。
彭浩『近世日清通商関係史』(東京大学出版会、2015年)。
松浦章『清代海外貿易史の研究』(朋友書店、2002年)。
松浦章『近世東アジア海域の文化交渉』(思文閣出版、2010年)。
松浦章『近世東アジア海域の帆船と文化交渉』(関西大学出版部、2013年)。
宮田安『唐通事家系論攷』(長崎文献社、1979年)。
宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓編』(長崎文献社、1982年)。
森美里「玉名に残る「信牌(長崎通商照票)」とその背景」、熊本県立大学文学部卒業論文、2016年。
森田誠一「深江屋文書に現れた高瀬町の性格」『玉名社会科研究会会報』第8号、1953年。
森田誠一『近世における在町の展開と幕政−熊本藩を中心として−』(山川出版社、1982年)。
薮田貫・若木太一編著『長崎聖堂祭酒日記』(関西大学出版部、2010年)。
山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』(吉川弘文館、1995年)。
劉序楓「清日貿易の洋銅商について:乾隆〜咸豊期の官商・民商を中心に」『九州大学東洋史論集』第15号、1986年。
劉序楓「清代前期の福建商人と長崎貿易」『九州大学東洋史論集』第16号、1988年。
若木太一「京都向井家墓碑考−文人向井元升の家系」『長崎大学教養部紀要 人文科学篇』第33巻第2号、1993年。
若木太一『長崎聖堂と向井家』平成18年度大学高度化推進経費報告書(長崎大学環境科学部文化環境講座、2007年)。
若木太一編『長崎:東西交渉史の舞台 下巻 明・清時代の長崎 支配の構図と文化の諸相』(勉誠出版、2013年)。
渡辺庫輔「去来とその一族」、去来顕彰会編『向井去来』(去来顕彰会、1954年)所収。




あとがき

ver. 1.0公開時点での課題と展望をまとめてあとがきとする。
 第1章「学問と教育」では、聖堂における文事、とくに歴代祭酒の学的業績や、漢詩会にまつわる史料なども紹介したかったが、このヴァージョンに盛り込むことはできなかった。また大量に残されている版木類(多くは正面刷り)の調査・分析も今後の大きな課題である。
 第2章「建築と祭具」では、聯・額類はほぼ紹介し終えたが(ただし個々の由来や背景についてはまだほとんど解明できていない)、香炉や燭台をはじめ取り上げるべき聖堂器物はまだ多い。将来的には、それらを総合した、聖堂建築と釈菜の復元研究に一定の見通しをつけたいと思っており、この分野の専門家の参入を期待している。
 第3章「聖堂と唐貿易」では、熊本の玉名に現存する新発見の信牌(個人蔵。玉名市立歴史博物館こころピア寄託)を軸に展示構成したが、信牌割方の実態についてはなお未解明の問題が多く、今後も関連文書の発掘・解読と相互連関の把握を進めていく必要性を痛感している。また配銅証文には、著名な来舶清人の名も散見され、今回公開したリストは、その来航・在留時期を確定するための基礎データとして利用することができる(すでに大庭脩、松浦章、錦織亮介らの諸先学がそうしたお仕事を発表されている)。ただし現データはまだ精度や汎用性が低いので、研究に利用される場合は一次史料にあたって頂きたい。
 第4章「書物改」では、あまり多くの文書を紹介することができなかったが、個人的にはもっとも関心のある分野なので、今後史料の解読につとめたい。
 ウェブ作成はまったくの素人のため、本当はサイドメニューに目次を出したり、javaやjQueryなども試したかったが、力及ばず断念した。もし協力して頂ける方がおられたらご連絡いただけるとありがたいです。
 このヴァージョンはひとまずの区切りとして公開するもので、内容についての質問やコメントがあれば是非お寄せ頂きたく、また長崎聖堂の存在が広く知られるよう、関心をお持ちの向きにブログやSNS等でご紹介頂ければ幸いです。
 本ヴァージョンの公開準備中に熊本地震に被災した。なお余震がおさまらず、先の見えない日々が続いている。日常の回復にむけてまだ道は遠いが、この聖堂プロジェクトを含む様々な仕事が無事再開できるよう、震災後最初の仕事として特に記しておく。 (2016年5月1日 平岡記)




謝辞

本ウェブ展は、長崎歴史文化博物館における長崎学共同研究の一環であり、同館の多大なご協力なしに実現することはできませんでした。
また資料の調査・掲載にご協力頂いた以下の各機関・各位に感謝申し上げます(五十音順、敬称略)。

 玉名市立歴史博物館こころピア 東京大学史料編纂所 東明山興福寺 長崎市文化観光部文化財課 浦紳也 木下知威 竹田宏司 道下舞子 矢田純子

とりわけ玉名市立歴史博物館こころピア学芸員の村上晶子氏には資料の調査・掲載にあたり多大なご協力を頂き、若木太一先生には準備調査の段階から終始懇切丁寧なご指導を頂きました。
聖堂文書の解読・注釈に熱心に取り組んでくれた熊本県立大学文学部の以下の学生諸子に感謝いたします(五十音順、敬称略)。

 岩野未祐 小川望 櫻井郁子 佐々木汐理 清水咲希 新宮幸之介 続米花菜 田崎薫 飛永有里 東美帆 藤川雄平 宮本隆成 森美里

とくにゼミ生の小川望さんと森美里さんには、資料の撮影や整理だけでなく、内容や背景にまつわる度重なる議論にもお付き合い頂きました。記して感謝いたします。
なお本研究はJSPS科研費26750095の助成を受けたものです。

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